龍雲寺ダンマトーク(法話会)のお知らせ

【龍雲寺ダンマトークのお知らせ】
来る6月24日午後3時半よりダンマトーク(法話会)を行います。
講師は諸事情のため、私(龍雲寺住職・細川晋輔)が務めさせていただきます。がんばります!
昨日のNHKの番組でも取り上げられていた「禅修行」について、その修行の先に何があるのか?をみなさんと考えていけたらと思っています。
「おんな城主・直虎」の修行の話などもできたらいいなと考えています。
よろしくお願いいたします。
要予約。無料です。
申し込みはこちらよりお願いいたします。

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白隠禅師二五〇年遠諱法要とわたし

【白隠禅師250年遠諱法要】※写真はお借りしました。
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先日、京都の大本山・妙心寺で行われた白隠禅師の250回忌法要の写真です。臨済宗各派の管長様や修行道場の老師様方など多数ご列席の中、荘厳に営まれました。
圧巻は参加者600人による『白隠禅師坐禅和讃』の唱和でした。
ご存命中は座ることのなかった大本山・妙心寺の法堂の椅子。
250年の時を超え、妙心寺の法堂に着座された白隠禅師は何を思われたでしょう。今の臨済宗に生きる私たちに何をおっしゃりたかったか…
色々と考えさせられた時間でした。
「如是我聞」ー私はかくの如く聞きましたー
今なお白隠禅師が生き続けられていると信じ、その教えをみなさまに伝えていく。私が去年出版させていただいた『わたしの坐禅』を、白隠禅師がご覧になったらどんなことをおっしゃられるでしょうか。「まだまだ」と笑われてしまうかもしれません。
まだまだ出発点、まだまだ頑張らなくては!と立ち戻らせてくれた尊い時間でした。
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おんな城主・直虎の禅語③ 「一日不作一日不食」

「一日不作一日不食」~一日作さざれば、一日食らわず~

 ※「いちにち」、「いちじつ」読み方にはそれぞれ読み癖があり、どちらが正しいかは言い切ることはできません。

龍潭寺に入門した次郎法師が、兄弟子である昊天さんにかけられた言葉です。道場での生活について初心者なのに丁寧に教えてもらえず、それこそ「背中を見て学べ」と突き放されてしまい、かわいらしい次郎法師がとてもかわいそうに思えるシーンでした。 

賛否両論あると思います。けれども、親切丁寧に教えてもらえない世界は、たくさんあると思います。実際体験したことはありませんが、芸能や芸術の世界、職人さんの技など、それこそ命がけで尊敬する師匠から、技を見て盗んでいたのではないでしょうか。

この修行で大切なのは、「物事を注意深く見る眼」だと思うのです。当たり前のように繰り広げられている日常のシーンを、事細かに観察していく、心を置いて直視していくことこそ、自分自身の成長に繋がるという想いがあるのです。 

2500年前にインドで生まれた仏教は、中国に伝えられ「禅」という形で定着していきました。それまでの仏教は直接的な生産活動はしていなかったのですが、修行者が一カ所のお寺に大勢集まるようになると、「作務」という修行がはじまります。坐禅修行するかたわら、自ら畑を耕し、鍬をとり、斧を振るって、米を搗(つ)くという生活に変化していったのです。

 

百丈懐海禅師という中国の高僧の言葉です。百丈禅師は、80歳を過ぎても作務を怠りません。弟子達は体調を気遣って、百丈禅師が作務をできないように、道具である箒や鍬を隠してまうのです。百丈禅師はやむなく作務をあきらめて部屋に帰ります。しかし、それ以後、食事をとりません。心配した弟子達は「和尚、お加減でも悪いのですか?」とお伺いをたてます。百丈禅師は答えるのです。

 

「一日不作一日不食」と。

 

この言葉は、「働かざる者食うべからず」の意味ではありません。働くことは食べるために行うものではなく、「作務(務めを作す)」なのです。修行僧にとって「作務」は、仏道の実践に他ならないのです。百丈禅師は一日働かなかったから食べなかったのではなく、一日仏道の実践をおろそかにしたから、食べられなかったのです。

 

自分一人では生きることができないのが、この現実社会です。私たちは、生きていく以上、何かを食べなくてはなりません。私たちは食べなければ生きていけない以上、どう自分自身の「務めを作()す」べきか、この言葉と向き合っていただければ幸いです。

「おんな城主・直虎」の禅語② 自灯明~己の信じたものを、明かりとして進む~

自灯明~己の信じたものを、明かりとして進んでいく~

 

13話「城主はつらいよ」での南渓和尚のセリフです。力がないと嘆き悔やんでいた直虎は、城主になって力を得てみると、実はその力を得るということの怖さをしります。自分の決めたことが本当のことになってしまう。しかもその結果がよければ正解となり、良くなければ不正解となる。

そんな直虎に対して南渓和尚は、「己の信じたものを、明かりとしてすすんでいくしかない」と諭します。「自灯明は、人の上に立つものの喜びであり、辛さでもある」と。

 

「自らを光とし

 自らをよりどころとせよ

 法を光とし

 法をよりどころとせよ」

 

「自灯明、法灯明」の教えです。法とはお釈迦様の教えを示しています。

お釈迦様の教えを光として、自分たちを調えていく。自分自身を光りとし自分を頼りにしていく。

お釈迦様が高齢になり、死期が近づくにつれて、後継者のことで悩む弟子たちに、お釈迦様の教えはいうのです。

「みなはただ自らを光とし、自らをよりどころとし、法を光とし、法をよりどころとして修行をすればいい。私が生きている今も、私が亡きあとも、自灯明、法灯明の教えに従うものことが、この教団の後継者となるのです」と。

 

「おのれこそ

 おのれのよるべ

 おのれをおきて

 たれによるべぞ

 よくととのえし

 おのれにこそ

 まこと得がたき

 よるべをぞえん」『法句経』

 

信じて頼りにしていた人に裏切られると、私たちは失意の中に「信じられるのは自分しかいない」と嘆きます。また、何か失敗すると「自分が信じられなくなった」と自分を突き放してしまうのです。

「信じられるのは自分だけ」、「自分が信じられない」というのは「自我」のおごりや放棄です。表面的な「自我」の奥底にある「自己」というものこそ、「よくととのえしおのれ」と示されるのです。その自己と出会えたときこそ、得がたき拠り所を得ることになるのです。

 

表面的な見返りやうわべの利益を超えた先に、直虎が城主として目指したものがあるのです。