仏教初心者講座 「一から学ぶ日本の仏教」

仏教伝道教会さまの「一から学ぶ日本の仏教」に登壇させていただきます。

去年も務めさせていただきましたが、仏教にご興味をお持ちくださった方々に、わかりやすくお話できるよう精進いたします。

講師陣も私を除けば、「さすが伝道教会さま!」という先生方。

ぜひ、下記フォームより申し込み下さいませ。

http://www.bdk.or.jp/event/japanese_buddhism.html

桜花爛漫の候 ~枯木再び花を生ず~

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枯木再び花を生ず

 

最近はFacebookやInstagramにアップしてばかりで、ブログを長い間お休みし、大変失礼いたしました。

写真ばかりではなく、ブログの方も精進しますので、お読みいただけたら幸甚です。

2月からはスタジオジブリが発行している『熱風』で『十二の禅の言葉と「ジブリ」』も連載させていただいております。こちらもぜひご覧くださいませ。

いよいよ境内のソメイヨシノも満開を迎えました。枝垂れ桜の蕾みも日に日に膨らんでまいりました。今週末の桜の協演も楽しみです。3月30日(金)から4月1日(日)までの3日間、普段着の茶会(午後3時から午後6時)や、ライトアップ(午後6時から午後9時)もぜひお越しください。

今日の禅語は「枯木再び花を生ず」です。これは『碧巌録』に記されている言葉です。

お彼岸も過ぎ、テレビの天気予報でサクラの開花情報を取り上げる頃になると、わたしはいつもこの語句を思い出します。

冬の間は、まるで枯れた木のようにひっそりとしていた桜も、春の訪れと共に固い蕾みをたくわえ、桜前線とともに綺麗な花を咲かせてくれます。そして私たちは、冬には枯木のようだったことなどすっかり忘れて、満開に咲き誇る桜を楽しむのです。

このことは桜の花だけに限ったことではありません。私たちの人生もまたしかりです。迷い苦しむ日々を冬枯れの桜にたとえるならば、それを乗り越え、花を咲かせるように幸せを感じることもできるのです。

しかし、世の中は諸行無常です。綺麗に咲いている桜の花が十日もすれば散っていくように、私たちの幸せも永遠のものではありません。桜が花びらを散らし、ガクが落ちて、葉っぱに虫がついて、秋になると紅くなってまた散っていくように、私たちの身の上にも別れや挫折が容赦なく押し寄せてくるのです。

「おんな城主・直虎」のオープニングは植物の映像でした。「植物は、生きることだけにストイック」このメッセージが込められた素晴らしい映像でした。まさに「生きることだけにストイック」であることを、春の桜たちは私たちに伝えてくれているように思うのです。

悪いことが続く毎日かもしれません。楽しいことが見つからないかもしれない。幸せを実感できないかもしれない。しかし、厳しい寒さの冬を乗り越えれば、いつか必ず花が咲く時が来る。そんなことを綺麗な桜たちはみをもって教えてくれているようです。

 

『大死一番、絶後再び蘇る』~おんな城主・直虎の禅語~

 本日で、禅宗指導として関わらせていただいた『おんな城主・直虎』も最終回となりました。本当にお世話になった作品で、最終回まで無事に終わった安堵感や、寂しさなど複雑な心境です。
 直虎さんが、菅野よう子さんが作曲された『観音経』を唄われたり、脚本家の森下佳子さんが禅語をドラマで用いてくださり、南渓さんが本物のお坊さんのようだったり・・このおかげで、禅、禅語や仏教に興味をお持ちいただく方が増えたことは、仏教者としては嬉しい限りです。
『大死一番、絶後再び蘇る』
この言葉は、まさに「おんな城主・直虎」の生涯をあらわしていると思います。禅とは「捨てる」もの。禅の修行で姫としての立場や女性としての幸せなど、たくさんのものを捨てられました。愛すべき両親や、許嫁、親友など大切なものをたくさん失ってきました。城主となってからは、井伊の家、領地、領民すべてを失うこととなってしまう。まさに「大死一番」でありました。
そこから、「絶後再び蘇る」とことが見事なところ。捨てたからこそ、失ったからこそ見えた景色があった。それで、一歩踏み出すことができたのでしょう。
  『碧巌録』という禅の書物にでてくる言葉です。そこに記されている禅の高僧たちのやりとりは、まるで達人同士が互いに刀を振り上げ構えたような、そんな緊張感が伝わってくるようです。
趙州和尚という九世紀頃の中国の禅僧が、投子山にいた大同和尚を訪ねたときのお話です。お二人とも禅の道を究められた高僧です。ある学者さんによるとこの時、趙州和尚は百三歳で、大同和尚は六十二歳であったとか。
趙州和尚は投子山の近くで、それらしき人と遭遇し、声をかけます。
「あなたは、大同和尚ではありませんか?」
すると大同和尚は、「私は街へ買い物にいくのだが、銭を施してくれないか?」と、趙州和尚の質問には答えずに、行ってしまいます。
趙州和尚は投子山で大同和尚が帰ってくるのを待っていると、大同和尚が油壺を下げて帰ってくるのです。
趙州和尚は、「投子山の大同和尚のご高名は鳴り響いていたが、来てみたら何のことはない、ただの油売りではないか」と言い放ちます。
それに対して大同和尚はこうやり返します。「お前さんは油壺に気をとられて、私がみえないようだが」と。
趙州和尚も引き下がりません。「では大同和尚の正体を見せてみよ」と。
すると大同和尚は、油壺を手で突き出して「油~、油~、油はいらんかね~」と油売りに成り切るのです。
そして、ここからが今回の本題に入ります。趙州和尚は「大死底の人、却って活する時如何。~死に切った人が、生き返って来た時はいかがか?~」と。
対して大同和尚は、「夜行を許さず、明に投じて、須く到るべし。~夜道は暗くて危うい、夜が明けてから出掛けるがよい~」と間髪入れずに答えたのです。これは、「愚かな問いだ。出直して来い」という意味に捉えられます。
この問答では、達人同士、その振り上げた刃から、その間合いからお互いの「心」を感じ取っていたのでしょう。お互いをけなしているようで、深い認め合いがあることが感じられます。
「大死底の人」とは、どういう人でしょうか。この「死」は肉体的な「死」ではありません。全てを失ったところ、まったく自分を忘じたところ、自分というものを捨てきった「無」という消息です。その「無」をもさらに否定し、捨てきったところの真っ暗な世界を「大死一番」というのです。しかし、禅ではこの「大死一番」を悟りのゴールとはいたしません。ここから「絶後、再び蘇る」、大活して現前することが必要になるのです。そこには、目に見えるもの、耳から聞こえるもの、すべてが活き活きとした現実ありのままの明るい世界があるのです。   自分自身が「大死一番」という極限の状態を経験してこそ、初めて自由自在に生きていくことができると、この禅語は教えてくれているのです。
白隠禅師が描かれた禅画の中に、『猿猴捉月図』というものがあります。かわいいお猿さんが、左手でしっかり枝をつかみながらも、右手で水に映った月を捉えようとするところが描かれています。これは、猿王が木の枝につかまり、さらに五百匹の猿が次々に相い連なって井戸の中の月をとろうとするが、結局枝が折れてしまい、猿たちは水中に落ちてしまうという話が元になっています。妄想を水に映った月に例え、それを真理と思って求めてしまうことをたとえて戒めているのです。
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私も最初は、まるで「リーダー論」のように、リーダーが間違ったものを目指して求めてしまうと、部下たちも一緒に水に落ちて失敗してしまう。まやかしのものを求めてはならないと理解していたのですが、この禅画はそれだけでは終わらないのです。
この禅画には、「手を放てば深泉に没す、十方光皓潔たり」との言葉がそえられているのです。言われるまでもなく、手を離してしまえば深泉に落ちてします。しかし、そうなると光が皎潔であると。しかし、私はハッとしました。大事そうに左手でしがみついている枝は何であろうか?自分が今まで築いてきた地位や名誉でしょうか、それとも勉強して蓄えてきた知識や積み重ねてきた経験でしょうか。自分の人生において大事に大事にしてきたものを、思い切って手放してみるとどうなるでしょう。
おそらく、猿のように泉に落ちてしまいます。そして、その時私たちは気がつくのです。水面に映って、必死に手を伸ばして捕らえようとしていた月がまやかしであることに。そして、ぶら下がっているときも、泉に落ちたときも等しく、いつも空から月が照らし続けていたことに。左手を大切な枝から手放してみて、はじめて気づくことがある。水から顔を出すためにもがく時間ももちろん必要となりますが。
NHKの制作統括の方の最後の挨拶が忘れられません。「時代劇は過去のものではなく、現在や未来のためのもの」
「おんな城主・直虎」をご覧になって、今の生活に何か励みというか背中を押してくれるような力を感じられた方は、少なくないのではないでしょうか。

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『謡い経』意訳 ~おんな城主・直虎~

おんな城主・直虎で直虎さんが謡うようにお唱えしている観音経の世尊偈の部分です。お声に出してお読み頂ければ幸甚です。

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ここからは、世尊偈の意訳となります。

殊妙の相貌を具えられたお釈迦様に、私(無尽意菩薩)は重ねて問います。尊い人間性をもったものを、どうして「観音」と呼ぶのでしょうか?
お釈迦様はことばをもって示されます。観音のはたらきは、いつ何時、どんな場所でもみなの役に立てるように、海よりも果てなく深い誓いのもとに、数多の仏様にお侍(つか)侍(つか)えして、この清らかな願いを立てられたのです。
お釈迦様はわれらのために再び略して説かれます。観音の御名(みな)御名(みな)を聞きなさい。その御姿を拝みなさい。そして、心に念じるのです。このようにして人生を空しく過ごさなければ、私たちはすべての苦しみから必ず解き放たれるのです。
害意をもたれて、火の中に落とされても、観音を念ずれば、火の坑は池と変わるのです。
たとい大海に漂流して、波風が激しく打ち寄せようとも、彼の観音の力を一心に念ずれば、波に溺れることはありません。
或いは、世界の中心にあるとされる須弥の峰から押し落とされようとも、彼の観音の力を一心に念ずれば、その身は宙に浮かぶのです。
そびえ立つ金剛の山頂から突き落とされようとも、彼の観音の力を一心に念ずれば、怪我一つすることはありません。
賊の白刃に囲まれても、彼の観音の力を一心に念ずれば、彼らは慈悲の心を起こすのです。
悪政のために、罪に問われ刑に処せられても、彼の観音の力を一心に念ずれば、刀は粉々に壊れ、その命は救われるのです。
手かせ足かせの責苦に遭っても、彼の観音の力を一心に念ずれば、その苦しみから逃れられるのです。
嫉妬や中傷、自身に危害を被られそうでも、彼の観音の力を一心に念ずれば、それらは跡形もなく消えてしまいます。
おそろしく悪い鬼や毒龍と遭遇しても、彼の観音の力を一心に念ずれば、危害を受けることはありません。
猛獣に取り囲まれて、危難に遭っても、彼の観音の力を一心に念ずれば、恐れ逃げ出してしまうでしょう。
毒蛇やマムシに襲われて、火焔の舌を吐かれても、観音を念ずれば、念仏の声とともに姿を消し去ります。
雷鳴轟き、豪雨に見舞われようとも、彼の観音の力を一心に念ずれば、たちまち鎮まるでしょう。
悩み苦しむ人びとよ、災いに遭い、苦悩に耐えかねても、観音の智慧は、必ず世間の苦しみからお救いくださるのです。
観音はその自由自在なはたらきと、広大な智慧の力によって、いつでもどこでも巡りあうことができるのです。
さまざまな悪いこと、また生老病死の苦しみは、彼の観音の力を一心に念ずれば、次第に消えていくのです。
清らかな眼、慈しみの眼、明らかな眼、哀れみの眼、汚れなき眼は、世の闇を照らしていくのです。
そのあわれみのすがたである戒は雷、また慈しみのこころは美しい雲の如し。それらは教えの雨を降らせて、私たちの悩みの火を消し去るのです。
人と争う恐れ、戦いの畏れにおののくとき、観音を念ずれば、多くの仇や恐れはおさまるのです。
妙なる音、世を観ずる音、清浄なる音、潮の如く包み抱く音、これらはなんと世に優れたる音なのでしょう。
念じるのです。念じ続ければ疑う余地もなくなるのです。観世音菩薩こそ苦しみから逃れるための拠り所なのです。
観音は、すべてのよき功徳を具えられ、悩める人たちを慈しみの眼で見つめています。その幸せは、海のように広がっているのです。だからこそ、私たちは慎んで拝むのです。
その時、持地菩薩はお釈迦様にお礼を述べました。「お釈迦様、この観音自在の働きとその神通力を聞くものは、その得られる功徳は決して少ないものではありません。」お釈迦様が、この法を説かれたとき、その座にあったものはみな、無上の菩提心を起こしたのです。

すべてがたとえ話であり、「仮に」や「或いは」という言葉が並んでいるのが特徴的です。私たちの日常生活で、火の中に落とされたり、大海に遭難することは、そうはないかもしれません。しかし、「火の中」を「怒りの火」と置き換えてみてはいかがでしょうか。抑えきれない怒りで我を失いそうになったとき、少し落ち着いて「念彼観音力」と一心にお唱えすることができれば、そこはたちまち池にかわるというのです。これが、観音経が私たちに教えてくれる幸せに生きるためのメッセージなのです。

 

謡い経 ~おんな城主直虎~

今回はおんな城主・直虎で柴咲コウさん演じる直虎が、ドラマ中に唱える歌のようなお経について。

「お経なのに歌みたい」と感じられる方も多いと思います。それもそのはず「歌です!」

臨済宗のお唱えの仕方とは異なり、ドラマでのオリジナルということになります。

曲を作られたのは『花は咲く』で有名な菅野よう子さん。

NHKのホームページにも紹介されています。ぜひご覧下さい。http://www.nhk.or.jp/naotora/special/pickup06/

お唱えしているお経は「観音経」というお経で、正確には「法華経」全二十八章のうちの「観世音菩薩普門品」のことです。日本では昔から「般若心経」と並んで信仰されてきたお経です。
その内容は、「悩める私たちが人生を歩む上で、さまざまな苦悩を受けなければならないとき、この『観世音菩薩』の御名を一心に唱えるなら、この音を観じて、すべての苦悩をまぬがれることができる」というものです。つまり「一時でも観音の名号を一心に念じ礼拝するならば、大きな幸せを得ることができる」と説かれているのです。
お経自体、本文と詩(偈文)から成立しております。お釈迦様の教えは口伝で伝承されていたので、憶えやすいように後半は詩として要約されています。詩文は『世尊偈』と称され、大河ドラマではこちらをお唱えしております。
お釈迦様は、悩み苦しむ人生において、一心で観音を念じるように説かれますが、その観音こそが、私たちの求めるべき「本当の自分」ということに気づかせてくれるのがこのお経なのです。

観音様に願いを込める。般若心経は自己の究明の色が濃いのですが、観音経は願いと祈りのお経です。

そのお経の言葉に菅野よう子さんが素敵なメロディーを加え、柴咲コウさんが命を吹き込む。いつも自分でもお唱えしているお経ですが、一心に聴いているとなんとも心が癒やされます。

直虎の『謡い経』から、観音経に興味をもってくだされば、本当にありがたいご縁だと思います。

柴咲コウさんは、カバーアルバムを出されたときに、歌手として「歌に心を込める」ことへの心の変化があったそうです。そんな直虎さんだからこそ、この『謡い経』がたくさんの方々に届いているのではないでしょうか。

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