請其本務 【禅の言葉】

請其本務

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「不要不急」――

 

世界を巻き込む感染症の拡大防止のため、ある日突然、突きつけられた言葉。まるで、禅問答のように考えさせられました。

自分にとって不要不急であることでも、相手にとってはそうではない。また逆もしかりであることも痛感させられました。

大袈裟にいえば、宗教というものの存在価値も問われることとなり、私の身近なところでは、江戸時代から続いてきた地域の行事も、自分の僧侶としての核であると信じて続けてきた坐禅会も休止せざるを得ませんでした。

 

坐禅会にしても、法事にしても、命のリスクを犯してまで行うものではないという現実。坐禅にいたっては心と身の健康を願って行うものであるとするならば、当然の休止ということになります。今生きている人たちの命が第一であると考えれば、ほとんど全てのものが不要不急であるのです。

 

私は、以前行われた円覚寺・横田(よこた)南嶺(なんれい)老大師と対談されたスタジオジブリの鈴木敏夫さんの言葉を思い出すのです。

「本来、人間が生きていく上で、必要なものと必要でないものがあって、その伝で言えば、やっぱりジブリだって必要ないですよね。その気持ちは、映画を作るときにどこかで持っていないといけない。その上で人に何かを伝えるわけですから。本来、食べものを作るとか、生活用品を作るとか、そのほうが偉いに決まっているんですもの。それだけは自分に言い聞かせているんですけれどね」

                                                                                  「禅とジブリ」鈴木敏夫著 淡交社

 

鈴木さんは、「人間が生きていく上で大事なのは、やっぱり衣食住」と断言され、「『人類はすごい』なんておごり高ぶっていると、ひどいしっぺ返しに遭うんじゃないかな。『人類は幼い』とは大事な考えだと思います」と受けられていたのです。

当時、そこまで真剣に受け止めていなかったこの言葉も、今こういった現状の中では、ズッシリと私の心の奥底まで響いてくるのです。

 

先が見えない毎日の中、今までの価値観が崩され、いつまでこんな現状が続いていくかわからない閉塞感。人工知能がいくら進化しても、自然災害や感染症は予知も防止もままならない。そんな時代に生きていかなければならない私たちは、何を思って生きていかなくてはならないのでしょうか。

 

「請其本務」~請(こ)う、其(そ)の本(もと)を務(つと)めよ~

 

この禅語は、私が修行させていただいた京都・妙心寺を開かれた無相(むそう)大師(だいし)の遺言の一部になります。このご遺言は「御遺戒」として私たち臨済宗妙心寺派の僧侶はとても大切にしているのです。

 

この禅語は、あまり世に知られたものではないかもしれませんが、吉川英治著の『宮本武蔵』(新潮社)で、剣の道を究めるにあたり苦しんでいた武蔵が、その生涯の悩みから開眼するきっかけになる語として使われているのです。

 

自身の臨終にあたって、現在の妙心寺開山堂(玉鳳院)の井戸端で、弟子である微笑大師にむかって

 

「汝等請う『其の本』を務めよ」

 

と示された無相大師。無相大師が伝えたかった、私たちが務めなくてはならない「その本」とは、一体何なのでしょうか?

 

私はこの言葉こそ、その本であると信じています。

生ききる

 

 

これは、祖父・松原(まつばら)泰道(たいどう)の「生ききる」としたためられた色紙です。今でも私の人生の大切なコピーとなっています。

 

百一歳でなくなる直前まで講演をし、机で原稿用紙と向き合っていた祖父は晩年、常に「生ききる」という言葉を大切にしていました。「生きる」に「き」を一文字付け加えるだけで、一生懸命生きていると言うことが表れる、とても素晴らしい言葉です。例えば「走る」と「走りきる」では、その決意や意欲が全然違うように。

 

「其の本」とは、禅僧が坐禅することでも、それぞれの仕事や役割をこなすことでもなく「一生懸命に生きること」に他なりません。

寝ることも、食べることも、遊ぶことも、働くことも、何もかも全てが、私たちが務めなければならない大切なことなのです。そして、ただ単に行うのではなく、それらを一生懸命に行うことを忘れてはならないのです。

 

つまり一日一日を、かけがえのない時間として大事に、一つ一つの事柄を大切に生きていく。それこそが、無相大師が「請う、其の本を務めよ」という禅の言葉に込められたメッセージだったのです。

無相大師の御遺戒には続きがあります。「誤(あやま)って葉を摘み枝を尋(たず)ぬること莫(な)くんば好(よ)し」と。間違っても枝葉ばかり追っかけてはいけないよと厳しく示してくださっているのです。

 

小説の宮本武蔵も、導いてくださった禅僧に御礼とお詫びを告げようと後を追おうとして、「それも枝葉‥」と思い止まります。御礼やお詫びを告げるよりも、その指し示してくれた道を自分自身で全うすることが大切だと思ったからだと私は思うのです。

 

 

「枝葉末節」という言葉があるんだけれど、ここへ来て、みんながこだわっているのは枝葉どころじゃない。僕は強くいいたいのですが、「木を見て森を見ず」どころか、枝葉、そして現代がみているのは葉脈です。この先はもうないと思うんです。そうすると、揺り戻しが来る気がして仕方がない。僕の期待が入っているかもしれないけれど。何で、みんな自分たちで住みにくくしているんですかね。

「禅とジブリ」淡交社

 

鈴木さんのおっしゃるとおり、私たちは枝葉にばかり、葉脈ばかりを気にしすぎているのかもしれません。こういう時だからこそ、少しだけ遠くを見ることができる視点が必要なのです。

 

どうしようもない困難に突き当たる時――

 

枝葉ばかりに気をとられずに、自分の出発点ともいえる、その「本」を探してみましょう。自分の「本」さえ見失っていなければ、その着実な一歩こそ、かならず幸せに続いているはずです。

いつか必ず来る夜明けに向かって、今できることを探していくことが大切なのです。

 

目の前が真っ暗で見通しがつかない時ほど、明日を見つめて、目の前のこと、一つ一つを愛おしく生きていく――

 

その今の積み重ねこそが、未来となることを、今回の禅の言葉は教えてくれるのです。

 

3月 写経会中止のお知らせ

写経会 休止のお知らせ

「国際的な公衆衛生上の緊急事態」が宣言された新型コロナウイルスに対しまして、龍雲寺も感染症を人から人へ感染させる恐れがあるとの判断により、3月14日(土)開催予定の写経会を休止することとなりました。

たくさんの方にご参加いただいている写経会を休会とすることは、まことに残念でなりません。換気や消毒の励行などで対応することも試みましたが、たくさんの方々にご参加いただいている性質上、苦渋の決断をさせていただいた次第です。

何より毎回欠かさずご参加いただいている方々、ご予約いただいた初参加の方々にはご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんが、ご理解のほど宜しくお願い致します。

なお、当日は玄関に納経いただける場所、新しい写経用紙を受け取れる場所を用意する予定です。ご無理のないようにお願い申し上げます、

最後になりましたが、罹病された方々のご無事と、感染症が収束し、一日も早く平穏な日々に戻りますことを心から祈念いたします。

龍雲寺

 

※再開は龍雲寺ホームページでお知らせいたします。

※ご参加のご予約いただいた方にはメールにてご連絡いたしますが、再開後ご都合よろしい時に、いつでもご参加ください

 

 

禅語 「一期一会」

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龍雲寺の山門を入ると、大きな石に「一期一会」と刻まれています。臨済宗妙心寺派の元管長・臥雲庵松山寛惠老大師のご染筆です。

今から約20年くらい前でしょうか?トムハンクス主演でアカデミー賞をとった「フォレストガンプ」という映画の邦題に「一期一会」という禅の言葉が使われたことがあります。まさに「出会いと別れ」を表した名作が世間に広まるに伴い、この「一期一会」という言葉も広く浸透いたしました。

まず、その言葉を見てみましょう。

「一期」これは仏教語で「一生涯」をあらわします。

そして、「一会」これも仏教語で「多くの人による集まり、会合」を意味します。

この意味を踏まえて茶道の側から見てみましょう。

千利休は茶道の一番の心得として、「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともにお互い誠意を尽くせ」としていました。そして利休の弟子の一人、山上宗二は自身の著書に「一期に一度の会」と記しています。

そして、この言葉を確立したのは江戸時代の大老・井伊直弼なのです。

1860年の3月3日、雪降る江戸城桜田門外で水戸浪士に襲撃を受け四十六歳の短い生涯を終えた井伊直弼は、名門彦根藩主の井伊家に生まれながら、妾の子と言うことで長い間不遇の時代を過ごします。しかし、その間に茶道に精進し、石州流の茶人「宗観」として茶道の分野でも名をしられ、「茶湯一会集」という著書を残しています。この「茶湯一会集」の序文には次のような文章があります。

そもそも茶の湯の交会は、一期一会といいて、たとえば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実にわれ一世一度なり。

たとえ同じ人に幾度会う機会があっても、いま、この時の出会いは再び帰ってこない。一生涯ただ一度限りの出会いである故、一回一回の出会いを命がけで臨まなければならないという意味です。茶の湯ももちろんそう臨まなければなりませんが、私たちの人生もまた然りです。

では「一期一会」に人生を進める、生きていくとはどういう生き方でしょうか?私たちの人生は、出会いの連続です。両親や友人、同寮、同志、たくさんの人たちとの出会いがあります。もちろん出会いの対象は人間だけではありません。犬や猫、草木、山や海はもちろん、目の前の全てのものとの出会いも含まれます。

お茶会だけではなく、人との出会いだけではなく、目の前の一つ一つのことまでも、この場限りと思って一生懸命向き合っていく。今日一日で人生が終わってしまうという覚悟で、集中して臨めば間違いなく人生は幸せな時間となるのではないでしょうか?

生きると言うことは間違いなく死に近づいている。

今日一日生きると言うことは、間違いなく死に一日近づいているということです。だからこそ、毎日はとても貴重で、かけがえのないものなのではないでしょうか?

「一期一会」がわかると「会った時が別れの時」ということが分かります。そう考え てみると、言葉の使い方も、ものの考え方も、身体の動作すべてにわたり、「これでいいのか」と自己判断ができるはずです。そして、この「一期一会」はなにも死に対する恐怖や悲しみなどの感情を呼び起こすものではありません。積極的に豊かで幸せな人間的生き方を指し示してくれているのです。

私が言いたいことは、「いまを大切に生きる」ということです。今を大切にしてはじめて未来を正しく生きる道に通じるはずです。そうすれば、自分を大切にし、時間を大切にし、他を愛して心身共に豊かになれる生き方ができるのではないでしょうか?

だからこそ、家族や友人など、たとえ毎日毎日同じ顔をつきあわせる同志でも、その出会いが「一期一会」と合点できたら「いってきます」「おやすみなさい」「さよなら」などのありふれた挨拶も、出かけたらもう二度と会うことはないかもしれない。一度寝たら目が覚める保証なんてどこにもない。とても意味がある素敵な言葉だとおもいませんか?

最後に森信三先生の言葉を添えさせていただきます。

人生、出会うべき人には必ず出会う

しかも、一瞬遅からず、早からず

私はここまででも大好きな言葉ですが、さらに続きがあることを教えてもらいました。

しかし、内に求める心なくば

眼前にその人ありといえども

縁は生じず

桜花爛漫の候 ~枯木再び花を生ず~

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枯木再び花を生ず

 

最近はFacebookやInstagramにアップしてばかりで、ブログを長い間お休みし、大変失礼いたしました。

写真ばかりではなく、ブログの方も精進しますので、お読みいただけたら幸甚です。

2月からはスタジオジブリが発行している『熱風』で『十二の禅の言葉と「ジブリ」』も連載させていただいております。こちらもぜひご覧くださいませ。

いよいよ境内のソメイヨシノも満開を迎えました。枝垂れ桜の蕾みも日に日に膨らんでまいりました。今週末の桜の協演も楽しみです。3月30日(金)から4月1日(日)までの3日間、普段着の茶会(午後3時から午後6時)や、ライトアップ(午後6時から午後9時)もぜひお越しください。

今日の禅語は「枯木再び花を生ず」です。これは『碧巌録』に記されている言葉です。

お彼岸も過ぎ、テレビの天気予報でサクラの開花情報を取り上げる頃になると、わたしはいつもこの語句を思い出します。

冬の間は、まるで枯れた木のようにひっそりとしていた桜も、春の訪れと共に固い蕾みをたくわえ、桜前線とともに綺麗な花を咲かせてくれます。そして私たちは、冬には枯木のようだったことなどすっかり忘れて、満開に咲き誇る桜を楽しむのです。

このことは桜の花だけに限ったことではありません。私たちの人生もまたしかりです。迷い苦しむ日々を冬枯れの桜にたとえるならば、それを乗り越え、花を咲かせるように幸せを感じることもできるのです。

しかし、世の中は諸行無常です。綺麗に咲いている桜の花が十日もすれば散っていくように、私たちの幸せも永遠のものではありません。桜が花びらを散らし、ガクが落ちて、葉っぱに虫がついて、秋になると紅くなってまた散っていくように、私たちの身の上にも別れや挫折が容赦なく押し寄せてくるのです。

「おんな城主・直虎」のオープニングは植物の映像でした。「植物は、生きることだけにストイック」このメッセージが込められた素晴らしい映像でした。まさに「生きることだけにストイック」であることを、春の桜たちは私たちに伝えてくれているように思うのです。

悪いことが続く毎日かもしれません。楽しいことが見つからないかもしれない。幸せを実感できないかもしれない。しかし、厳しい寒さの冬を乗り越えれば、いつか必ず花が咲く時が来る。そんなことを綺麗な桜たちはみをもって教えてくれているようです。

 

『謡い経』意訳 ~おんな城主・直虎~

おんな城主・直虎で直虎さんが謡うようにお唱えしている観音経の世尊偈の部分です。お声に出してお読み頂ければ幸甚です。

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ここからは、世尊偈の意訳となります。

殊妙の相貌を具えられたお釈迦様に、私(無尽意菩薩)は重ねて問います。尊い人間性をもったものを、どうして「観音」と呼ぶのでしょうか?
お釈迦様はことばをもって示されます。観音のはたらきは、いつ何時、どんな場所でもみなの役に立てるように、海よりも果てなく深い誓いのもとに、数多の仏様にお侍(つか)侍(つか)えして、この清らかな願いを立てられたのです。
お釈迦様はわれらのために再び略して説かれます。観音の御名(みな)御名(みな)を聞きなさい。その御姿を拝みなさい。そして、心に念じるのです。このようにして人生を空しく過ごさなければ、私たちはすべての苦しみから必ず解き放たれるのです。
害意をもたれて、火の中に落とされても、観音を念ずれば、火の坑は池と変わるのです。
たとい大海に漂流して、波風が激しく打ち寄せようとも、彼の観音の力を一心に念ずれば、波に溺れることはありません。
或いは、世界の中心にあるとされる須弥の峰から押し落とされようとも、彼の観音の力を一心に念ずれば、その身は宙に浮かぶのです。
そびえ立つ金剛の山頂から突き落とされようとも、彼の観音の力を一心に念ずれば、怪我一つすることはありません。
賊の白刃に囲まれても、彼の観音の力を一心に念ずれば、彼らは慈悲の心を起こすのです。
悪政のために、罪に問われ刑に処せられても、彼の観音の力を一心に念ずれば、刀は粉々に壊れ、その命は救われるのです。
手かせ足かせの責苦に遭っても、彼の観音の力を一心に念ずれば、その苦しみから逃れられるのです。
嫉妬や中傷、自身に危害を被られそうでも、彼の観音の力を一心に念ずれば、それらは跡形もなく消えてしまいます。
おそろしく悪い鬼や毒龍と遭遇しても、彼の観音の力を一心に念ずれば、危害を受けることはありません。
猛獣に取り囲まれて、危難に遭っても、彼の観音の力を一心に念ずれば、恐れ逃げ出してしまうでしょう。
毒蛇やマムシに襲われて、火焔の舌を吐かれても、観音を念ずれば、念仏の声とともに姿を消し去ります。
雷鳴轟き、豪雨に見舞われようとも、彼の観音の力を一心に念ずれば、たちまち鎮まるでしょう。
悩み苦しむ人びとよ、災いに遭い、苦悩に耐えかねても、観音の智慧は、必ず世間の苦しみからお救いくださるのです。
観音はその自由自在なはたらきと、広大な智慧の力によって、いつでもどこでも巡りあうことができるのです。
さまざまな悪いこと、また生老病死の苦しみは、彼の観音の力を一心に念ずれば、次第に消えていくのです。
清らかな眼、慈しみの眼、明らかな眼、哀れみの眼、汚れなき眼は、世の闇を照らしていくのです。
そのあわれみのすがたである戒は雷、また慈しみのこころは美しい雲の如し。それらは教えの雨を降らせて、私たちの悩みの火を消し去るのです。
人と争う恐れ、戦いの畏れにおののくとき、観音を念ずれば、多くの仇や恐れはおさまるのです。
妙なる音、世を観ずる音、清浄なる音、潮の如く包み抱く音、これらはなんと世に優れたる音なのでしょう。
念じるのです。念じ続ければ疑う余地もなくなるのです。観世音菩薩こそ苦しみから逃れるための拠り所なのです。
観音は、すべてのよき功徳を具えられ、悩める人たちを慈しみの眼で見つめています。その幸せは、海のように広がっているのです。だからこそ、私たちは慎んで拝むのです。
その時、持地菩薩はお釈迦様にお礼を述べました。「お釈迦様、この観音自在の働きとその神通力を聞くものは、その得られる功徳は決して少ないものではありません。」お釈迦様が、この法を説かれたとき、その座にあったものはみな、無上の菩提心を起こしたのです。

すべてがたとえ話であり、「仮に」や「或いは」という言葉が並んでいるのが特徴的です。私たちの日常生活で、火の中に落とされたり、大海に遭難することは、そうはないかもしれません。しかし、「火の中」を「怒りの火」と置き換えてみてはいかがでしょうか。抑えきれない怒りで我を失いそうになったとき、少し落ち着いて「念彼観音力」と一心にお唱えすることができれば、そこはたちまち池にかわるというのです。これが、観音経が私たちに教えてくれる幸せに生きるためのメッセージなのです。