本来無一物。いずれの処にか塵埃を惹かん。

前回のブログで紹介した神秀の偈をみた弘忍禅師の弟子たちは、素晴らしい境界だと彼を称えました。しかし、神秀の偈が不十分と一人の毎日米をついているような無学の僧が批評します。当然、まわりの修行僧たちは請け合いません。その僧の名は慧能。そしてその境界を偈にあらわします。

 

菩提本無樹

明鏡亦非台

本来無一物

何処惹塵埃

 

菩提本樹なし

明鏡も亦台に非ず

本来無一物

何れの処にか塵埃を惹かん

 

菩提という樹も、明鏡という心もない。菩提もなければ、煩悩もない。本来無一物である。塵埃のよりつくところもないから、払拭する必要もないというのです。

 

これにより弘忍禅師の禅は、慧能に伝わり、六祖慧能となりました。後に慧能の禅風は南宗禅といい、神秀の禅風は北宗禅と呼ばれます。

これらの偈からわかるように、神秀の北宗禅は修行の積み上げと、順番を踏んでいくところに重点をおく漸悟(ぜんご)といい、慧能の南宗禅は「ありのまま」が悟りであり、それに気づくために、一つ飛躍の必要性を説く頓悟(とんご)といいます。

 

よく禅の悟りを中秋の明月のような美しい月に例えます。曇りの日に月を見ることができないが、その雲が取り払われたら、美しい明月が見える。その月は今までなかったわけではなく、間違いなくそこに存在していたのです。月を悟りとして、雲を煩悩(雑念)とし、その雲を順番に取り除いていくおこないが、漸悟の修行なのかもしれません。しかし、頓悟の側からはどうでしょう。月を悟りともせず、雲を煩悩ともしない。そういう対立の二念をおかない。その心こそ「悟り」であるというのではないでしょうか。

 

日本でいうと、盤珪国師の不生禅は頓悟、白隠禅師の禅風は漸悟と呼べるかもしれません。どちらが正しいかではなく、目指すところは間違いなく同じであり、私たちに考えるきっかけを与えてくださっているのかもしれません。

 

ぜひ、神秀禅師と慧能禅師の偈を比べてみてください。

白隠 猿