おんな城主・直虎の禅語③ 「一日不作一日不食」

「一日不作一日不食」~一日作さざれば、一日食らわず~

 ※「いちにち」、「いちじつ」読み方にはそれぞれ読み癖があり、どちらが正しいかは言い切ることはできません。

龍潭寺に入門した次郎法師が、兄弟子である昊天さんにかけられた言葉です。道場での生活について初心者なのに丁寧に教えてもらえず、それこそ「背中を見て学べ」と突き放されてしまい、かわいらしい次郎法師がとてもかわいそうに思えるシーンでした。 

賛否両論あると思います。けれども、親切丁寧に教えてもらえない世界は、たくさんあると思います。実際体験したことはありませんが、芸能や芸術の世界、職人さんの技など、それこそ命がけで尊敬する師匠から、技を見て盗んでいたのではないでしょうか。

この修行で大切なのは、「物事を注意深く見る眼」だと思うのです。当たり前のように繰り広げられている日常のシーンを、事細かに観察していく、心を置いて直視していくことこそ、自分自身の成長に繋がるという想いがあるのです。 

2500年前にインドで生まれた仏教は、中国に伝えられ「禅」という形で定着していきました。それまでの仏教は直接的な生産活動はしていなかったのですが、修行者が一カ所のお寺に大勢集まるようになると、「作務」という修行がはじまります。坐禅修行するかたわら、自ら畑を耕し、鍬をとり、斧を振るって、米を搗(つ)くという生活に変化していったのです。

 

百丈懐海禅師という中国の高僧の言葉です。百丈禅師は、80歳を過ぎても作務を怠りません。弟子達は体調を気遣って、百丈禅師が作務をできないように、道具である箒や鍬を隠してまうのです。百丈禅師はやむなく作務をあきらめて部屋に帰ります。しかし、それ以後、食事をとりません。心配した弟子達は「和尚、お加減でも悪いのですか?」とお伺いをたてます。百丈禅師は答えるのです。

 

「一日不作一日不食」と。

 

この言葉は、「働かざる者食うべからず」の意味ではありません。働くことは食べるために行うものではなく、「作務(務めを作す)」なのです。修行僧にとって「作務」は、仏道の実践に他ならないのです。百丈禅師は一日働かなかったから食べなかったのではなく、一日仏道の実践をおろそかにしたから、食べられなかったのです。

 

自分一人では生きることができないのが、この現実社会です。私たちは、生きていく以上、何かを食べなくてはなりません。私たちは食べなければ生きていけない以上、どう自分自身の「務めを作()す」べきか、この言葉と向き合っていただければ幸いです。

「おんな城主・直虎」の禅語② 自灯明~己の信じたものを、明かりとして進む~

自灯明~己の信じたものを、明かりとして進んでいく~

 

13話「城主はつらいよ」での南渓和尚のセリフです。力がないと嘆き悔やんでいた直虎は、城主になって力を得てみると、実はその力を得るということの怖さをしります。自分の決めたことが本当のことになってしまう。しかもその結果がよければ正解となり、良くなければ不正解となる。

そんな直虎に対して南渓和尚は、「己の信じたものを、明かりとしてすすんでいくしかない」と諭します。「自灯明は、人の上に立つものの喜びであり、辛さでもある」と。

 

「自らを光とし

 自らをよりどころとせよ

 法を光とし

 法をよりどころとせよ」

 

「自灯明、法灯明」の教えです。法とはお釈迦様の教えを示しています。

お釈迦様の教えを光として、自分たちを調えていく。自分自身を光りとし自分を頼りにしていく。

お釈迦様が高齢になり、死期が近づくにつれて、後継者のことで悩む弟子たちに、お釈迦様の教えはいうのです。

「みなはただ自らを光とし、自らをよりどころとし、法を光とし、法をよりどころとして修行をすればいい。私が生きている今も、私が亡きあとも、自灯明、法灯明の教えに従うものことが、この教団の後継者となるのです」と。

 

「おのれこそ

 おのれのよるべ

 おのれをおきて

 たれによるべぞ

 よくととのえし

 おのれにこそ

 まこと得がたき

 よるべをぞえん」『法句経』

 

信じて頼りにしていた人に裏切られると、私たちは失意の中に「信じられるのは自分しかいない」と嘆きます。また、何か失敗すると「自分が信じられなくなった」と自分を突き放してしまうのです。

「信じられるのは自分だけ」、「自分が信じられない」というのは「自我」のおごりや放棄です。表面的な「自我」の奥底にある「自己」というものこそ、「よくととのえしおのれ」と示されるのです。その自己と出会えたときこそ、得がたき拠り所を得ることになるのです。

 

表面的な見返りやうわべの利益を超えた先に、直虎が城主として目指したものがあるのです。

「おんな城主・直虎」の禅語① 「清風明月を払い、明月清風を払う」

ご縁があって私、今年のNHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」の禅宗指導をさせていただいております。もちろん毎週楽しみに、そして興味深くドラマを見させていただいております。戦国時代、日本各地にはこうした領主や農民や和尚さんやお坊さんたちが、こうやって暮らしていたのかと、かっこいい戦国大名や勇猛な武将にしか興味がなかった私にとって、気づかされることがたくさんあります。

脚本だけでも大変面白いのですが、それに演じられる役者さんをはじめ、映像や照明や衣装や所作などのスタッフさんや先生方が関わられると、より一層話に厚みがでてくるので、本当に驚かされます。

作中でも、禅宗のことがいたるところで取り上げられ、禅の言葉もたくさんでてきております。みなさまにより一層、ご興味をお持ちいただけるよう、このブログで禅の言葉などを取り上げてみたいと思います。

 

「清風明月を払い、明月清風を払う」

 

14話「徳政令の行方」にでてきた禅の言葉です。

ドラマを見ながらいつも思うことなのですが、脚本の森下佳子さんの禅語の置き方が、本当に秀逸であるということ。流れるストーリーの中で、そこだけ少し時間がとまるような、そして何か考えさせられるような、そんな使い方をして下さっているように感じます。

 

逃散してしまった村の百姓たちに向かって、城主になった直虎が諭すように使った言葉。「清風明月を払い、明月清風を払う」治める側と治められる側とが、対立するのではなく、一体でありたいと願う。まるで月と風とがそうあるように。

 

これは『人天眼目』に見られる語句で、禅の悟りの清らかさをあらわしています。中秋の名月といわれるような、言葉もでないくらいの美しい月に、夏の暑さから冬へと向かう清々しい風が吹き抜ける情景を私たちに思い描かせてくれます。

「清風」も「明月」も澄み切った悟りの境地を表現するのによく使われ、二つを対比させながらも置き換えることで、「無礙圓融」なる心をあらわしているのです。

 

治める側に立った直虎が、心に遮るものを置かずに領民と接していきたい。「明月清風を払う」だけではなく、「清風明月を払う」だけでもなく、「清風明月を払い、明月清風を払う」というお互いに寄り掛かりながらも、関わっていきたいという願いが込められているように思えます。それでいて、秋のさわやかな景色のように、後になにも残さない。

 

荘子の言葉に「君子の交わりは淡きこと水の如し」とありますが、それは水のように、深入りすることなくあっさりとした関係のことでしょうか?

いえ、そうではありません。お互いがしっかりと一体になりながら、その後に何ものも遺していかない。何の跡形も残さない。こういった人間関係こそ、生き方こそ、「清風明月を払い、明月清風を払う」というものなのです。

 

サクラ咲く

IMG_4509今年のNHK大河ドラマおんな城主直虎オープニングのテーマは「植物」となっています。鬱蒼と茂った緑色の苔をバックに、兜から主人公をイメージした「戦う花」が根を下ろしてたくましく成長していく。制作者の言葉を借りると、「植物は生きることにストイックであり、そこに迷いが一切無い。生きるという素直な本能しかない」とのこと。どんなことがあってもあきらめることなく、迷うことなく成長していく、植物の「生きる姿勢」に感動いたします。

これは、仏教にも通じるところがあるように思えます。亡くなった人のためにあるわけではなく、今生きている人たちのためのお釈迦様からのメッセージであることこそ、仏教の根本であると私は考えます。今まさに悩み苦しみながら生きている私たちが、幸せに生きるための教えであり、そのために必要なことが、自然を慈しむことや、先祖を敬うことなのではないでしょうか。そして、その自然や亡くなった人たちから学んでいくことこそ、生きることの充実となり、それこそ私たち自身の死を充実させていくことにつながっていくと思うのです。

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本日もライトアップ行う予定です。天気とも相談ですが、日曜まで行えたらいいなと考えております。ぜひ、今年のサクラを見に来て下さい。

昼間はいつでもご覧になれます。