禅語 「一期一会」

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龍雲寺の山門を入ると、大きな石に「一期一会」と刻まれています。臨済宗妙心寺派の元管長・臥雲庵松山寛惠老大師のご染筆です。

今から約20年くらい前でしょうか?トムハンクス主演でアカデミー賞をとった「フォレストガンプ」という映画の邦題に「一期一会」という禅の言葉が使われたことがあります。まさに「出会いと別れ」を表した名作が世間に広まるに伴い、この「一期一会」という言葉も広く浸透いたしました。

まず、その言葉を見てみましょう。

「一期」これは仏教語で「一生涯」をあらわします。

そして、「一会」これも仏教語で「多くの人による集まり、会合」を意味します。

この意味を踏まえて茶道の側から見てみましょう。

千利休は茶道の一番の心得として、「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともにお互い誠意を尽くせ」としていました。そして利休の弟子の一人、山上宗二は自身の著書に「一期に一度の会」と記しています。

そして、この言葉を確立したのは江戸時代の大老・井伊直弼なのです。

1860年の3月3日、雪降る江戸城桜田門外で水戸浪士に襲撃を受け四十六歳の短い生涯を終えた井伊直弼は、名門彦根藩主の井伊家に生まれながら、妾の子と言うことで長い間不遇の時代を過ごします。しかし、その間に茶道に精進し、石州流の茶人「宗観」として茶道の分野でも名をしられ、「茶湯一会集」という著書を残しています。この「茶湯一会集」の序文には次のような文章があります。

そもそも茶の湯の交会は、一期一会といいて、たとえば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会に再びかえらざることを思えば、実にわれ一世一度なり。

たとえ同じ人に幾度会う機会があっても、いま、この時の出会いは再び帰ってこない。一生涯ただ一度限りの出会いである故、一回一回の出会いを命がけで臨まなければならないという意味です。茶の湯ももちろんそう臨まなければなりませんが、私たちの人生もまた然りです。

では「一期一会」に人生を進める、生きていくとはどういう生き方でしょうか?私たちの人生は、出会いの連続です。両親や友人、同寮、同志、たくさんの人たちとの出会いがあります。もちろん出会いの対象は人間だけではありません。犬や猫、草木、山や海はもちろん、目の前の全てのものとの出会いも含まれます。

お茶会だけではなく、人との出会いだけではなく、目の前の一つ一つのことまでも、この場限りと思って一生懸命向き合っていく。今日一日で人生が終わってしまうという覚悟で、集中して臨めば間違いなく人生は幸せな時間となるのではないでしょうか?

生きると言うことは間違いなく死に近づいている。

今日一日生きると言うことは、間違いなく死に一日近づいているということです。だからこそ、毎日はとても貴重で、かけがえのないものなのではないでしょうか?

「一期一会」がわかると「会った時が別れの時」ということが分かります。そう考え てみると、言葉の使い方も、ものの考え方も、身体の動作すべてにわたり、「これでいいのか」と自己判断ができるはずです。そして、この「一期一会」はなにも死に対する恐怖や悲しみなどの感情を呼び起こすものではありません。積極的に豊かで幸せな人間的生き方を指し示してくれているのです。

私が言いたいことは、「いまを大切に生きる」ということです。今を大切にしてはじめて未来を正しく生きる道に通じるはずです。そうすれば、自分を大切にし、時間を大切にし、他を愛して心身共に豊かになれる生き方ができるのではないでしょうか?

だからこそ、家族や友人など、たとえ毎日毎日同じ顔をつきあわせる同志でも、その出会いが「一期一会」と合点できたら「いってきます」「おやすみなさい」「さよなら」などのありふれた挨拶も、出かけたらもう二度と会うことはないかもしれない。一度寝たら目が覚める保証なんてどこにもない。とても意味がある素敵な言葉だとおもいませんか?

最後に森信三先生の言葉を添えさせていただきます。

人生、出会うべき人には必ず出会う

しかも、一瞬遅からず、早からず

私はここまででも大好きな言葉ですが、さらに続きがあることを教えてもらいました。

しかし、内に求める心なくば

眼前にその人ありといえども

縁は生じず

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