盤珪さんと禅問答

今回は、盤珪さんが愛媛県の如法寺で、弟子たちに禅問答を与えていた資料になります。

盤珪さんは、如法寺さまの開山堂である奥旨軒(現在、参拝できるかわかりません)にて、二十名の選りすぐりの弟子たちと、一度も横になることなく修行されておられたということです。私の大学院時代のレポートになります。

盤珪さんが用いた公案(禅問答)にご興味ある方はぜひ。

 

○是歳、師在如法。闢榛莾、攀葛蔂、登寺之頭數百歩。層巒屏立、蒼翠如畳。顧曰。此處可廬。何其深幽僻、愜意也。及命工、構數間草庵、扁以奥旨。深鎖扃扉、不許學侶諮叩。寂寞自適。有擧揚奥旨不開口。庭際寒梅撲鼻香之句。

この歳、師、如法に在り。榛莾(しんもう)を闢き、葛蔂を攀じ、寺の上頭數百歩に登る。層巒屏立(そうらんびようりつ)し、蒼翠畳むが如し。顧みて曰く。此の處廬(いおり)すべし。何ぞ其れ深幽僻の意に愜うやと。及ち工に命じ、數間の草庵を構え、扁するに奥旨を以てす。深く扃扉(けいひ)鎖して、學侶の諮叩を許さず。寂寞自適す。奥旨を擧揚するに口を開かず。庭際の寒梅は鼻を撲って香しの句有り。

 

○先是、室中擧飛猿嶺之話。勘験學者。令衆下語。不契。衆如喪考妣。且激向時不逮也。其出入巻舒。爲人大約如斯。

これより先、室中に飛猿嶺の話を擧して、學者を勘験す。衆をして下語せしむ。契わず。衆は考妣(こうひ)を喪うが如し。且つ向時の不逮を激するなり。其の出入巻舒(しゆつにゆうけんじよ)、人の爲にすること大約斯くの如し。

                         『大法正眼国師行業曲記』

○先是、室中擧雪峰辭洞山之話。勘験學者。一衆下語、悉皆不契。時山頭數千指。如喪考妣。且奥旨謝徒、激向時之不逮也。其出入巻舒、爲人、所在皆然。経六七朔、以衆固請復出。

これより先、室中に雪峰洞山を辭するの話を擧し、學者を勘験す。一衆下語すれども、悉く皆契わず。時に山頭數千指、考妣を喪するが如し。且つ奥旨に徒を謝するは、向時の不逮を激すとなり。其の出入巻舒、人の爲にすること、所在皆然り。六七朔を経て、衆の固く請するを以て復た出ず。

 

○又明年冬、告衆曰。日間参請轉轉多、應接不遑。恐以泛濫失其英霊。若抜其尤者、他自激勵相傚也。遂帥二十餘輩宿衲、復入奥旨、杜門絶外請、刻苦参究。一冬無就臥単者。於是乎。噴地一發者。不爲不多也。

 

又明年の冬、衆に告げて曰く。日間参請轉轉多く、應接に遑あらず。恐らくは泛濫(はんらん)を以てその英霊を失せん。若しその尤(はなはだ)しき者を抜かば、他は自ら激勵して相傚(なら)わんとなり。遂に二十餘輩の宿衲を帥いて復た奥旨に入り、門を杜じ外請を絶ち、刻苦参究せしむ。一冬臥単に就く者無し。ここにおいて、噴地一發する者、多からずと爲さざるなし。

                                                         『盤珪和尚行業記』

 

年譜によれば一六七〇(寛文十一)年、盤珪四十九歳の時の話である。ここで重要なことは盤珪が公案を用いて弟子達に下語させていたということである。その公案「飛猿嶺の話」、「雪峰辭洞山之話」は次のような公案である。

 

○雪峰辭師(洞山)、師曰、子甚麼處去、峰云、帰嶺中去、師曰當時從甚麼路出、峰云、從飛猿嶺出、師曰今回向甚麼路去、峰云、從飛猿嶺去、師曰、有一人不從飛猿嶺去、子還識麼、峰云、不識、師曰、爲甚麼不識、峰云、他無面目、師曰、子既不識、爭知無面目、峰無對。

                               『洞山録』

 雪峰が洞山を辞して、飛猿嶺を通り旧住処へ帰ろうとしたとき、洞山から本来嶺を出ぬもの(本具真性)を識るやと問われ、雪峰は不識と答えて、その相対的認識の関するものでは無いことを示した。さらに洞山から、しらぬならば対象的存在でないこともしらぬはずと問い詰められると、雪峰は只沈黙をもって答えたという。嶺の出入に托して本来無識無作の禅旨を宣揚したもの。

               『禅学大辞典p667』

雲門・・・-0005

 

 

盤珪さんと不生禅

盤珪永琢(一六二二~一六九三)は、現在の兵庫県姫路市網干区に生まれ、十七歳で出家し、命がけの厳しい修行に身を投じられ、ついに禅の悟りをひらかれました。そしてその生涯をかけて禅の教化活動に邁進されたのです。盤珪禅師はそれまで禅宗で用いられていた中国の言葉である漢語を使わず、誰もが理解できる平易な日本語を用い、自らの口から出た言葉で判りやすく、面と向かって、誰から誰に至るまで法を説かれました。中国から伝来した禅が、盤珪禅師によってはじめて日本オリジナルの禅として再誕され、当時行き詰まり状態であった日本臨済宗に新しい息吹が生まれたのです。

盤珪禅師の説かれた禅の内容は、自身の次の言葉に集約されています。

「皆親の産み付けてたもったは仏心ひとつでござる。余のものは一つも産み付けはしませぬ」

私たちが親から産み付けられたものは、「仏心」ただ一つ。他のものは何一つとしない。たとえば、鏡は前にある物を映そうと思わなくても、そのまま物を映します。その前の物が取り除かれれば、もちろん何も鏡には映りません。盤珪禅師は、この鏡のような心こそ「仏心」であるというのです。

また、盤珪禅師は、自身の永年にわたる生死をかけた厳しい禅修行を「無駄骨を折った」とあっさりと否定し「そんなものは一切不要である」と言い切られるのです。ありのままの自分でいい。なぜなら、「仏心」は生まれながらに私たちに具わっているもので、けっして後から生まれるものでも、死んだらなくなってしまうものでもない、つまり「不生」のものだからです。自分自身の中に生まれながらにある「不生の仏心」で暮らすことができれば、私たちは道を誤ることなく心安らかに人生を歩んでいける。この禅風こそ「不生禅」なのです。

禅は苦行ではない。無理をすることは必要ではない。ありのままでいい。できることなら皆には、厳しく辛い修行をすることなく気付いて欲しい。誰もが幸せに生きて欲しい。「不生禅」には宗教家・盤珪禅師の深甚たる慈悲の心とも言うべき「願い」を感じずにはいられないのです。

盤珪国師頂相 薬師院

薬師院蔵

 

盤珪国師の残されたもの ~円覚寺管長さまとの対談より~

先日の円覚寺管長さまとの対談で、「盤珪さんには弟子が育たなかった」という表現をさせていただきました。この言葉は、通説になっていますが、私は全てが正しいとは思っていません。私の預かる龍雲寺のご開山は節外祖貞禅師。この方は盤珪国師の高弟であり、直接法を受け継がれた弟子中の弟子ということになるからです。

しかし、盤珪さんの系統が比較的早い段階で途絶えてしまったことは、紛れもない事実です。対談の中で横田老師もおっしゃったように、大梁祖教禅師(網干・龍門寺二世)や融峰祖円禅師といった、盤珪さんの期待を背負われた立派なお弟子方が、早世されたことも間違いなくその一因です。

また、公案(禅問答)を否定されていた盤珪さんは、白隠禅師のように公案を用いての弟子の指導ができなかったこともその理由であると考えられています。この盤珪さんと公案については、次回のブログにあげさせていただくこととします。

「不生」の一文字ですべてがととのう――

ありのままでいい。厳しく苦しい修行などは必要ない。この宗教者・盤珪さんの慈悲心が違う形で、お弟子さんたちに届いてしまっていたのではないか。結果的に直接のお弟子さんたちはともかく、孫弟子の代になると白隠禅師から痛烈に批判される結果になったのです。

それでも、白隠禅師は不生禅を批判されることはあっても、盤珪さんを名指ししての批判は見受けられません。カリスマ性をもたれ、平易に禅の布教を行い、当時行き詰まり状態であった日本の臨済宗に風穴をあけられたことは間違いないと思うのです。

「やはり、盤珪さんの禅の流れは消えてしまったのか・・・」

事実、現在の臨済宗は、全て白隠禅師の流れに属しています。その流派も残されていません。それでも、横田老師の語録の提唱や、鈴木大拙先生のご著書、その影響を受けられている方々の言葉に出会うたびに、私は思うのです。

ここに、盤珪さんの禅は生きていると。

もしかすると盤珪さんは、こうなることをご存じであったようにも思えるのです。

 

※円覚寺さまのYouTubeチャンネル

円覚寺・横田南嶺老大師が盤珪さんに対する想いをお話になられています。