「おんな城主・直虎」の禅語① 「清風明月を払い、明月清風を払う」

ご縁があって私、今年のNHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」の禅宗指導をさせていただいております。もちろん毎週楽しみに、そして興味深くドラマを見させていただいております。戦国時代、日本各地にはこうした領主や農民や和尚さんやお坊さんたちが、こうやって暮らしていたのかと、かっこいい戦国大名や勇猛な武将にしか興味がなかった私にとって、気づかされることがたくさんあります。

脚本だけでも大変面白いのですが、それに演じられる役者さんをはじめ、映像や照明や衣装や所作などのスタッフさんや先生方が関わられると、より一層話に厚みがでてくるので、本当に驚かされます。

作中でも、禅宗のことがいたるところで取り上げられ、禅の言葉もたくさんでてきております。みなさまにより一層、ご興味をお持ちいただけるよう、このブログで禅の言葉などを取り上げてみたいと思います。

 

「清風明月を払い、明月清風を払う」

 

14話「徳政令の行方」にでてきた禅の言葉です。

ドラマを見ながらいつも思うことなのですが、脚本の森下佳子さんの禅語の置き方が、本当に秀逸であるということ。流れるストーリーの中で、そこだけ少し時間がとまるような、そして何か考えさせられるような、そんな使い方をして下さっているように感じます。

 

逃散してしまった村の百姓たちに向かって、城主になった直虎が諭すように使った言葉。「清風明月を払い、明月清風を払う」治める側と治められる側とが、対立するのではなく、一体でありたいと願う。まるで月と風とがそうあるように。

 

これは『人天眼目』に見られる語句で、禅の悟りの清らかさをあらわしています。中秋の名月といわれるような、言葉もでないくらいの美しい月に、夏の暑さから冬へと向かう清々しい風が吹き抜ける情景を私たちに思い描かせてくれます。

「清風」も「明月」も澄み切った悟りの境地を表現するのによく使われ、二つを対比させながらも置き換えることで、「無礙圓融」なる心をあらわしているのです。

 

治める側に立った直虎が、心に遮るものを置かずに領民と接していきたい。「明月清風を払う」だけではなく、「清風明月を払う」だけでもなく、「清風明月を払い、明月清風を払う」というお互いに寄り掛かりながらも、関わっていきたいという願いが込められているように思えます。それでいて、秋のさわやかな景色のように、後になにも残さない。

 

荘子の言葉に「君子の交わりは淡きこと水の如し」とありますが、それは水のように、深入りすることなくあっさりとした関係のことでしょうか?

いえ、そうではありません。お互いがしっかりと一体になりながら、その後に何ものも遺していかない。何の跡形も残さない。こういった人間関係こそ、生き方こそ、「清風明月を払い、明月清風を払う」というものなのです。