『大死一番、絶後再び蘇る』~おんな城主・直虎の禅語~

 本日で、禅宗指導として関わらせていただいた『おんな城主・直虎』も最終回となりました。本当にお世話になった作品で、最終回まで無事に終わった安堵感や、寂しさなど複雑な心境です。
 直虎さんが、菅野よう子さんが作曲された『観音経』を唄われたり、脚本家の森下佳子さんが禅語をドラマで用いてくださり、南渓さんが本物のお坊さんのようだったり・・このおかげで、禅、禅語や仏教に興味をお持ちいただく方が増えたことは、仏教者としては嬉しい限りです。
『大死一番、絶後再び蘇る』
この言葉は、まさに「おんな城主・直虎」の生涯をあらわしていると思います。禅とは「捨てる」もの。禅の修行で姫としての立場や女性としての幸せなど、たくさんのものを捨てられました。愛すべき両親や、許嫁、親友など大切なものをたくさん失ってきました。城主となってからは、井伊の家、領地、領民すべてを失うこととなってしまう。まさに「大死一番」でありました。
そこから、「絶後再び蘇る」とことが見事なところ。捨てたからこそ、失ったからこそ見えた景色があった。それで、一歩踏み出すことができたのでしょう。
  『碧巌録』という禅の書物にでてくる言葉です。そこに記されている禅の高僧たちのやりとりは、まるで達人同士が互いに刀を振り上げ構えたような、そんな緊張感が伝わってくるようです。
趙州和尚という九世紀頃の中国の禅僧が、投子山にいた大同和尚を訪ねたときのお話です。お二人とも禅の道を究められた高僧です。ある学者さんによるとこの時、趙州和尚は百三歳で、大同和尚は六十二歳であったとか。
趙州和尚は投子山の近くで、それらしき人と遭遇し、声をかけます。
「あなたは、大同和尚ではありませんか?」
すると大同和尚は、「私は街へ買い物にいくのだが、銭を施してくれないか?」と、趙州和尚の質問には答えずに、行ってしまいます。
趙州和尚は投子山で大同和尚が帰ってくるのを待っていると、大同和尚が油壺を下げて帰ってくるのです。
趙州和尚は、「投子山の大同和尚のご高名は鳴り響いていたが、来てみたら何のことはない、ただの油売りではないか」と言い放ちます。
それに対して大同和尚はこうやり返します。「お前さんは油壺に気をとられて、私がみえないようだが」と。
趙州和尚も引き下がりません。「では大同和尚の正体を見せてみよ」と。
すると大同和尚は、油壺を手で突き出して「油~、油~、油はいらんかね~」と油売りに成り切るのです。
そして、ここからが今回の本題に入ります。趙州和尚は「大死底の人、却って活する時如何。~死に切った人が、生き返って来た時はいかがか?~」と。
対して大同和尚は、「夜行を許さず、明に投じて、須く到るべし。~夜道は暗くて危うい、夜が明けてから出掛けるがよい~」と間髪入れずに答えたのです。これは、「愚かな問いだ。出直して来い」という意味に捉えられます。
この問答では、達人同士、その振り上げた刃から、その間合いからお互いの「心」を感じ取っていたのでしょう。お互いをけなしているようで、深い認め合いがあることが感じられます。
「大死底の人」とは、どういう人でしょうか。この「死」は肉体的な「死」ではありません。全てを失ったところ、まったく自分を忘じたところ、自分というものを捨てきった「無」という消息です。その「無」をもさらに否定し、捨てきったところの真っ暗な世界を「大死一番」というのです。しかし、禅ではこの「大死一番」を悟りのゴールとはいたしません。ここから「絶後、再び蘇る」、大活して現前することが必要になるのです。そこには、目に見えるもの、耳から聞こえるもの、すべてが活き活きとした現実ありのままの明るい世界があるのです。   自分自身が「大死一番」という極限の状態を経験してこそ、初めて自由自在に生きていくことができると、この禅語は教えてくれているのです。
白隠禅師が描かれた禅画の中に、『猿猴捉月図』というものがあります。かわいいお猿さんが、左手でしっかり枝をつかみながらも、右手で水に映った月を捉えようとするところが描かれています。これは、猿王が木の枝につかまり、さらに五百匹の猿が次々に相い連なって井戸の中の月をとろうとするが、結局枝が折れてしまい、猿たちは水中に落ちてしまうという話が元になっています。妄想を水に映った月に例え、それを真理と思って求めてしまうことをたとえて戒めているのです。
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私も最初は、まるで「リーダー論」のように、リーダーが間違ったものを目指して求めてしまうと、部下たちも一緒に水に落ちて失敗してしまう。まやかしのものを求めてはならないと理解していたのですが、この禅画はそれだけでは終わらないのです。
この禅画には、「手を放てば深泉に没す、十方光皓潔たり」との言葉がそえられているのです。言われるまでもなく、手を離してしまえば深泉に落ちてします。しかし、そうなると光が皎潔であると。しかし、私はハッとしました。大事そうに左手でしがみついている枝は何であろうか?自分が今まで築いてきた地位や名誉でしょうか、それとも勉強して蓄えてきた知識や積み重ねてきた経験でしょうか。自分の人生において大事に大事にしてきたものを、思い切って手放してみるとどうなるでしょう。
おそらく、猿のように泉に落ちてしまいます。そして、その時私たちは気がつくのです。水面に映って、必死に手を伸ばして捕らえようとしていた月がまやかしであることに。そして、ぶら下がっているときも、泉に落ちたときも等しく、いつも空から月が照らし続けていたことに。左手を大切な枝から手放してみて、はじめて気づくことがある。水から顔を出すためにもがく時間ももちろん必要となりますが。
NHKの制作統括の方の最後の挨拶が忘れられません。「時代劇は過去のものではなく、現在や未来のためのもの」
「おんな城主・直虎」をご覧になって、今の生活に何か励みというか背中を押してくれるような力を感じられた方は、少なくないのではないでしょうか。

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