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[005] 吾が心秋月に似たり碧潭清うして皎潔たり

吾が心秋月に似たり碧潭清うして皎潔たり物の比倫に堪うる無し我をして如何が説かしめん(寒山詩)

※「碧潭」とは青々とした深い底なしみずうみ「皎潔」とは清らかなこと「比倫」とはたぐい類のこと。
西田幾多郎博士の歌に
我がこころ深き底あり喜びも憂いの波もとどかじと思う
〜私の心の中に自分でも不思議に思うのだけれどなんだか喜びや悲しみなどとは無関係な深い底があるような気がします〜というものがあります。喜怒哀楽の波に揺れ動く心の奥底にある根源的で本質的なこころをここでは指しています。
寒山はこの「こころ」が秋の夜の名月の如く皓々と差別なく十方を照らし、その光が青々とたたえた澄み切った底なしのみずうみに冴え冴えと差し込むようにそれこそ一点の曇りもない清浄無垢であることを示しました。
この心は老若男女、大小貧富、賢愚凡聖を問わず誰にでも同じように存在するけれども、惜しいかな感情の波に引き摺られて確実にこころを自分のものにすることができないのです。私たちは眼も見え耳も聞こえ口もきけますがそれでも水が冷たいものだということを千言万語を費やして説明しても伝え切れません。
例えば水に触れてみて初めてその冷たさがわるように、寒山のいうこころは把握した人自身のみが知ることでそのことを他に伝えようにもつたえ切れません。
ここでも秋月に似たりで決してそのものではありません。結局比べるに足る物もなく説き尽す言葉もないのです。それが物の比倫に堪うる無し我をして如何が説かしめんと嘆じるゆえんなのです。