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[010] 碧落を衝開す松千尺 紅塵を截断す水一渓

衝開碧落松千尺截断紅塵水一渓(五灯会元)

※「碧落」とは青々とした大空、「紅塵」とは世の中の煩わしい事。
一本の古い松が一際高くそびえ、青々とした大空を突き抜けるという様子です。青々とした大空をこの世の浮世に喩え、一条の渓流がさらさらと流れて世の中の煩わしさを断ち切っているというように解釈できます。
浮世の煩わしさを遮断した静寂そのものの山寺や優雅な庵室の様子を表した言葉ではありますが、ただ単にその景観を表現しているだけではなく、物事の是非や善悪、邪正、愛憎等の煩悩妄想が渦巻く俗世間を断ち切った禅僧の心境を表していると見るべきです。
つまりは山寺の景観に自らの心境を託して私たちのあるべき心の持ち方、生き方を述べています。煩悩妄想が渦巻く毎日の生活の中でこの心の持ち方を自分のものとしなくてはなりません。
悪しくともただ一筋に捨つるなよ渋柿を見よ甘干となる(一休禅師)
干し柿は渋を抜いて新たに甘味を注入するわけではありません。渋がそのまま甘味になります。寒風にさらされてはじめて渋が甘味になるのです。
同じように憎い可愛い惜しい欲しい等の煩悩妄想がそのまま「悟り」には成り得ません。感情のままに動くのは自堕落な享楽主義以外の何ものでもないのです。煩悩妄想の心を転換してはじめて煩悩即ち悟りであると言えるのです。
心を転換するということは煩悩妄想を断ち切るのではありません。断ち切ってしまったのでは廃人なのです。煩悩妄想に引っ張りまわされている「心」を断ち切って煩悩妄想に振り回されない自由自在な心を確立しなくてはなりません。