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[012] 独り来たり独り去りて、一も随う者無し

独来独去 無一随者(大無量寿経)

独り来たり独り去りて、一も随う者無し
「浄土三部経」の一つ『大無量寿経』にあります。
富有なれど慳惜し、肯えて施与せず。宝を愛して貪ること重く、心労し身苦しむ。
是の如くして竟りに至れば、恃怙とする所無し。独り来たり独り去りて、一も随う者無し。
慳惜とは、ものおしみする心。恃怙とは頼む事です。
大金持ちだけれどもの惜しみが強く、あえて他の人に施与せず、財宝を愛して貪る心が強いと、かえって自分自身で心労が重なり苦しむものです。このようにして一生を過ごせば、死に臨んでも頼りにするものは何一つありません。独り来たり独り去りて、一も随う者無し。
所詮、私達は独りで生まれ、独りで老い、独りで病み、独りで死んでいかねばなりません。名誉も、財産も、妻子眷族も一緒に持って行く事が出来ないのです。
「菩提和讃」を思い出します。
老若貴賤諸共に無常の風に誘わるる  臨命終の果敢なさは施す術もあらばこそ
田畑数多有るとても冥土の用には成らぬもの  金銀財宝持つ人も携え行べき道ならず
妻子眷族ありしとて伴い行く事更になし  偕老比翼の契いも少時浮世の夢なれや
人間はまさに「ひとり」です。私達は、その厳粛な事実と向かい合って、真実、自分の生き方に思いが及ぶ時、得てしてその事実から逃れようと腐心するものです。それから逃れようとすれば、享楽的な刹那主義に陥り人生の破滅です。私達はその事実をしっかり看て取って、自分自身の「生きがい」のある人生を見つけださなければなりません。
放浪の俳人、種田山頭火(1882〜1940)は、今、ブームを呼んでいます。彼の束縛なき自由奔放な生き方が共感を呼んでいるようですが、その底流には自分の孤独と真摯に向かい合って、その孤独と戦う切実な思いがあるようです。それは一万句を超す俳句、感情のままに書いた日記、彼の無頼きわまりない行状でも納得出来ます。
彼は明治十五年の十二月、山口県の防府に生まれ、十一歳の時、母の投身自殺に遭い、大きなショックを受けます。東京に遊学して早稲田大学に入学しますが、途中退学し、父と共に酒造業を営みますが、酒蔵の酒が腐敗して、破産します。弟の自殺、母の死、父の死と続いて益々酒に溺れます。ついに熊本で泥酔して市電を止め、それが縁で曹洞宗の報恩寺で出家得度します。一旦観音堂の党守となりますが、孤独に耐えきれず、行乞放浪の旅に出ます。
炎天をいただいて乞ひ歩く  ほろほろ酔うて木の葉ふる
いただいて足りて一人の箸をおく  しんじつ一人として雨を観るひとり
放浪の旅に出て十五年、松山市の一草庵で、泥酔の中で頓死します。
おちついて死ねさうな草萌ゆる「独り来たり独り去りて、一も随う者無し」。
山頭火もこの句に参じた一人です。

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