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[018] 看よ看よ臘月尽く

看看臘月尽(虚堂録)

昨日正月を迎えたと思いきや、はや十二月です。
十二月には獣を猟してお祭りをしたことにより、十二月を「臘月」というようになったと言われています。誠に光陰矢のごとく、月日の経つのは速いものです。
私たちの人生の旅も、長い長いと思っていても、いつの間にか臘月です。終着駅です。気がついたときにはもう「遅八刻(ちはっこく)」です。「看よ、臘月尽く」―足元に火がついたのです。もう猶予はありません。看よ! 看よ! と勢い鋭く私たちに迫ってきます。
朱子学を大成した宋の朱熹(1200年没)に有名な詩があります。
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んず可(べ)からず
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声
―およそ、人間というものは、まだまだ自分は若いと思っているうちに、いつの間にか簡単に年を数えてしまうものです。それに較べて、学問はなかなか成就することができないものです。いつまでも少年時代の夢を追っていると、取り返しのつかないことになってしまうぞ! 一寸一刻の時間もゆるがせにはできないぞ! 春の草が池辺に青々と萌え出たと思っていると、いつの間にか庭前の梧桐(ごどう。あおぎり)の葉が秋風にさらさら鳴っているではないか。ご用心! ご用心!―朱熹は寸暇といえども空しく過ごすべからずと、歳月の早きを戒めたのです。
私たちの毎日は、朝から晩まで忙しい、忙しい、の連続です。しかし、一日終わって振り返って、今日一日やった! と充実感を持てる日は、一年のうちに何日あるでしょうか。私たちは一日二十四を無為に過ごして、使い切っていないのです。
棋士十五世名人、大山康晴氏(1923〜92)は、倉敷の小学校を出ると大阪の木見九段の門に入ります。当時の内弟子は師匠の家に住み込み、拭き掃除、風呂焚き、使い走りなどの雑務をしながら、将棋の勉強をするのが常でした。大山名人はその雑務の時間を、自分の指した手を反省する貴重な時間と思い、風呂焚き、拭き掃除、使い走りを厭がることなく自ら進んで受け、修行に打ち込みます。
また大山名人の後を襲った中原誠名人(1947〜)も、内弟子修行のころ、毎日のように新聞社に師匠の原稿を届ける仕事を命じられます。盤の前で将棋の研究に熱中したい年頃に、そんな雑用の時間は無駄遣いではないかと悩みますが、ある日、「そうだ、この時間、きのう指した将棋の反省をすればいいのだ」と思いつきます。そうすれば雑用の時間が苦痛でなくなり、貴重な時間を与えられているのだと感謝するようになります。
この二人の名人は、要するに与えられた自分の環境を、自分の時間として使い切ったというべきではないでしょうか。雑用が多いから修行ができない、勉強ができないというのは「うそ」です。「忙しい」とは、むだ遣いの裏返しといわれる理由もこの辺にあるのです。雑用、雑用と毎日追われる中にでも、自分の目的、信念をもう一度確かめてみようではありませんか。しっかりその辺を把握できれば、忙しさの中で終わる一日もまた、楽しいではないですか。

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