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[019] 水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ

掬水月在手、弄花香満衣(虚堂録)

この句は唐の詩人干良史(うりょうし)作の『春山夜月』の詩より『虚堂録』に引かれているもので、本来は春の夜の優雅さを詠じた句です。
「水を掬す」とは、水をすくうこと、「花を弄す」とは、花と戯れること。顔でも洗おうかと思ったのか、ふと水鉢の水を両手で掬うと、両手の掌の中に鮮やかに月が映っているではないか。行きずりの道の傍に咲く花があまりに美しいのでちょっと戯れると、その香りが衣に移って、いつまでもいつまでも花の香りを楽しむことができる、というわけです。
水を掬えば仏法の光が輝き、花を弄すれば仏法の教えに触れる。すなわちいつでも、どこでも、見るもの、聞くもの、在るものすべてが何一つとして仏法の真理から離れたものは無いことを言おうとしています。
ただ私たちは、それに気づかないだけです。否、心がそこにないから、水を掬っても月に気がつかず、花を弄して衣の香りに気がつかずにいるのです。
唐の末期に香厳智閑禅師(898年没)という方がおられます。禅師は、師である?山(いさん)禅師から公案を与えられます。「そなたは昔から資性聡明、博学宏識で学問研究は十二分に積んだようだが、そのことはさて置き、汝の父母未生以前の一句をいえ」と。「父母未生以前」とは、未だ母の胎内を出ないところ、すなわち自分と他の分別以前の絶対的な一句をいえというわけです。
この問いに対して香厳はいろいろと答えます。しかし?山は一向に許しません。香厳はついに「今までいろいろなことを学び、たくさんのことを覚えてきたが、結局何一つ役立つことがなかった」と一切を投げ棄てて山中に草庵を結び、失意のうちに黙々と行に励みます。しかし、父母未生以前の一句の公案は、香厳の脳裏から片時も離れませんでした。
山に入って18年、ある朝、庭を掃いていると小さな石でもあったのか、竹藪に箒で飛ばされて「カチーン」という音を立てます。静寂を破って鳴った「カチーン」という声で、忽然として父母未生以前の一句を悟るのです。「カチーン」という音から、心ここにあれば悟りの妙境を開くことができるのです。
私たちの人生にも、あり余るほどのいろいろな問題や悩みがあります。それを一つ一つ解決していこうとする真摯な心がまえがあれば、水を掬って月を収めるように、花を弄して香りが移りくるように、自然に納得できる答えを見つけ出すことができるのではないでしょうか。