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[020] 野火焼けども尽きず、春風吹いて又生ず

野火焼不尽、春風吹いて又生ず (白楽天)

中国唐時代の有名な詩人、白楽天の「古原草を賦し得て別を送る」という詩の一節です。
離離たり原上の草
一歳ひとたび枯栄す
野火焼けども尽きず
春風吹いて又生ず(『漢詩大系』第12巻 集英社)
「離離」とは草の生い茂るさま、野火とは野を焼く火。青々と茂った野原の草も、一年に一度栄えてはまた、枯れます。冬になると野火で焼かれて灰燼に帰してしまうけれど、不思議に根だけが生き残って、3月、春風に吹かれてまた、芽を出し、青々と茂ります。
「野火焼けども尽きず、春風吹いて又生ず」−毎年1月15日に行われている、奈良の若草山の山焼きを思い出します。まっ黒に焼けて寒々しいけど、そお灰がかえって養分となって、3月には青々と芽を出し、前にも増して新鮮な美しい若草山をつくり出します。誠に生命あるものの躍動に圧倒されます。
生身の肉体を持つ私たちは、生命のある限り、憎い、可愛い、欲しいというような本来的な欲望(心の働き)から逃げ出すことはできません。いま、その心の働きを煩悩妄想というならば、私たちは毎日、次から次へと煩悩妄想に押し寄せられています。煩悩妄想はいくら追い払っても、切り捨ててもまた、襲ってきます。まさに「野火焼けども尽きず、春風吹いて又生ず」です。
禅では煩悩妄想がすなわち菩提、悟りであるとよくいいます。しかし、煩悩妄想がそのまま、ストレートに悟りというのではありません。煩悩を転じて悟りに至るのです。煩悩妄想が悟りの種子になるのです。煩悩妄想をいったん断ち切り、否定し尽くして、初めて煩悩即菩提、現実即理想といえるのです。否定し尽くすためには、それは血のにじむような修行が必要です。禅は理屈ではありません。あくまでも実践、体験です。理屈で煩悩即菩提がわかっても、絵に描いた餅です。
通天の鼎州(ていしゅう)禅師の話です。あるとき、境内で松の落葉を一つ一つ丁寧に拾っておられるのを見た弟子が「お手ずからお拾いになる必要はありません。どうせ今、箒で掃きますから」といいます。禅師はしげしげと弟子の顔を見て、バカモノ! と怒ります。「そんな心でどうして修行ができるのだ。どうせなどと後をあてにするようではいかん! 一つ拾えば一つ美しくなるのだ!」と戒めます。鼎州禅師にしてみれば、掃除とはすなわち、自分の心の掃除だったのです。箒を持ったときのみが掃除ではない。毎日毎日、一瞬一瞬が掃除なのです。心に一塵の煩悩がとまったとき、直ちにその一塵を払いのけてこそ、初めて煩悩妄想を否定し尽くすことができるというわけです。
六祖慧能禅師と並び称される神秀禅師の偈に、
身は是れ菩提樹
心は明鏡台の如し
時々に勤めて払拭せよ
塵埃をして惹(つ)かしむること莫れ
―われわれの身は「悟りの実」を結ぶべき樹である。われわれの心は本来清浄にして明鏡のように輝いています。しかし、煩悩妄想のために尊い身を汚し、美しい心を曇らせています。故に煩悩妄想を払って、いつも清浄であるように心がけねばならない。毎日毎日が修行であれ―。
この偈は、禅的ではないといわれることもありますが、煩悩即菩提と大ボラを吹いて感情のままに走る時代に、「時々に勤めて払拭せよ! 塵埃をして惹かしむることなかれ!」の語は、心して聞くべきではないでしょうか。

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