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[025] 放下著 (ほうげじゃく)

放下著(五家正宗賛)

「ほうげじゃく」と読みます。間違っても「したぎをはなつ」と読まないで下さい。寒い冬の間は厚着をします。春になってだんだん暖かくなると、一枚脱ぎまた一枚脱いで薄着になっていく様子を・・下著・を・・放つ・・・と説明した人がいたそうです。笑えない話です。
「放下(ほうげ)」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意です。「著(じゃく)」は命令の助辞(じょじ)で放下の意を強める為に用います。「放下著」、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!というわけです。
『五家正宗賛』の趙州(じょうしゅう)和尚の章にある話です。
ある時、厳陽(げんよう)尊者という修行者が趙州和尚に問います。「一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)の時、如何(いかん)?私は長い修行の甲斐あって、煩悩妄想を断じ、自己本来の仏性を体得して無一物の消息を得ました。これから先、どう修行したらいいのでしょうか。」すると趙州和尚が答えます。「放下著」と。
厳陽尊者は一応、如何致(いかがしましょうか)と謙遜して聞いていますが、自分の無一物の境界(きょうがい)を見てくれといわんばかりの態度を看て取った趙州は、その無一物の境界を捨ててしまえとばかりに、「放下著」と一喝を浴びせたわけです。厳陽尊者は無一物の消息を得たかもしれませんが、まだその無一物を誇示(こじ)しようとする自我が残っています。「放下著」と一喝されても、まだその辺がわかりません。「既に是れいちもつ一物不将来、箇(こ)のなに什麼(をか)放下せん?私はすでに荷物をも捨て切った無一物の境界です。何もありません。一体何を捨てろとおっしゃるのですか。」趙州和尚、最後に「放不下ならば担取(たんしゅ)し去れ?捨てることができなければ、その無一物をかつ担いで去れ。

ここで初めて尊者は気が付きます。
禅は刻苦(こっく)、血の涙で修行に修行を重ねて、遂に悟りを得ることができます。しかし、それだけでは満足しません。さらに修行を重ねて、その悟りをも、その菩提をも捨て去る修行に打ち込みます。そして、迷いも、悟りも捨て切った洒々落々(しゃしゃらくらく)の消息を目指します。
 味噌(みそ)の臭さは上味噌にあらず、悟りの悟り臭きは上悟りにあらず、といわれる所以(ゆえん)もそこにあります。
 むじゅう無住法師の『沙石集(しゃせきしゅう)』にこんな話があります。
ある山中で四人の僧が、無言の行(ぎょう)を始めます。夜になって灯明(とうみょう)の火が消えます。一人の僧が大声で下男(げなん)と呼んで、油を足せと命じます。それを聞いた第二の僧が、無言の行中に声を出すのは何事か、と叱ります。第三の僧が第二の僧に注意します。貴公も声を出したのではないか、と。最後に第四の僧がいいます。声を出さぬのはこの俺だけだ、と・・・。
声を出さぬのは俺だけだ!俺だけが本物だという意識、「一物不将来の時、如何」と誇示するところ、自我のかたまり塊です。この自我が、一番始末に負えないのです。放下著、その自我を捨てよ!といっています。自分の持っている名誉、財産、知識、立場、主義等を捨てよと云うのではなく、持っている自分自身を捨て切れと教えています。
西郷隆盛は、「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬ人が、一番扱いにくい」といっています。 「放下著」を体得した人間の事ではないでしょうか。
何かと自己顕示欲の旺盛な昨今、「放下著」の語に参ずるのも必要なことです。
物もたぬたもとは軽し夕涼み

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