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[028] 寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す

寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎

『碧巌録』第四十三則 
挙す。僧、洞山(とうざん)に問う、「寒暑(かんじょ)到来す、如何(いかん)が回避(かいひ)せん」。山云く、「何ぞ無寒暑の処に向かって去らざる」。僧云く、「如何なるか是れ無寒暑の処」。山云く、「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」。 
「闍黎」とは阿闍梨(あじゃり)の略で僧の尊称、ここでは、「お前さん」という程の意。「殺」は意を強める助辞、ゆえに、「寒殺」「熱殺」は寒さに成り切る、熱さに成り切るという意。 
云うまいと思えど今日の暑さかな 
暑い時には何をしても暑いものです。寒い時も、 
こたつにはやはりこたつの寒さかな 
で、やはりどうしても寒いものです。 
一人の僧が中国曹洞宗を開いた洞山和尚(八〇七〜八六九)に問います、「寒暑到来す、如何が回避せん」。僧、更に問います、「如何なるか是れ無寒暑の処」。洞山一喝して云います、「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺すーーー寒い時には徹底的に寒さに成り切る」。 
寒さ暑さを相対的にとらえて比べるゆえに、悩みや苦しみがあるのです。それに成り切ってしまえば、それを感じる自己もなくなり、吹雪の山野でスキーを楽しんだり、炎熱の球場で野球に熱中する時のように、寒暑の中にあっても寒暑を感じないと云うのです。 
しかし、この話しは「寒さ」「暑さ」の話しではありません。「生」と「死」の問題です。「寒暑到来す、如何が回避せん」とは、生死の一大事に直面した時、どうすればそこから脱する事が出来るかと云う問題です。 
「無寒暑」、生死のない世界などありません。洞山和尚は生きる時は「生」に、死ぬ時は「死」に徹し切ることが生死から逃れる道だと云うわけで す。人間は生まれた以上死んで行かねばなりません。その死にもポックリ死んで行く人もあれば、悶え苦しんで行く人もあり、天災はもととり、事故の人災で死 ぬ人もいます。どのうような死に方にせよ、死は死に徹して、即ち、死にまかせ切って死んで行けばよいのであって、「恰好(かっこう)よく死のう」などと思 う必要はありません。要は寒暑、即ち生死に徹し切れるかどうかが問題であって、苦しみ悶えて死ぬ事も、死に徹し切れば、それもまたよいと云うわけです。 
良ェ和尚は、「生きる時は生きるが宜(よろ)しく候(そうろう)、死ぬ時は死ぬが候(そうそう)」と、苦しい時には苦しいにまかせ、死ぬ時には 死にまかせて何のはからいも施す事もなく、「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」と辞世の句を漏らして静かに息を引きとります。 
博多の仙腰a尚は、「死にともない!死にともない!」とつぶやきながら死んで行きます。 
私達も、何時、死がやって来るかも知れません。いつ来てもいいように、心の準備だけはしておきたいものです。

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