龍雲寺について
龍雲寺の歴史
時は元禄十二年。龍雲寺のはじまりは一六九九年です。三年後の元禄十五年が世に有名な赤穂浪士の討ち入りです。開山は節外和尚であり、江戸時代の高僧・盤珪国師の法を嗣いだ高弟です。野沢村の発展に伴って、村にお寺が必要であると切望した名主田中七右衛門等が智見寺の名義を譲り受け、龍雲寺と改名したといわれています。場所は現在の龍雲寺墓地付近(旭小学校敷地内)、寺領は三十町歩でありました。また、『新編武蔵国風土記稿』には当時の寺の様子を次のように記されております。「昔、下馬引澤村に智見寺という廃寺があった。そこに麻布光林寺の三世である霊源和尚が年を取ったため隠居した。間口七間の本堂の本尊は光林寺を開いた盤珪和尚作の如意輪観音坐像であった。また、本堂に向かって右手には地蔵堂があり惠心僧都作の地蔵菩薩が安置されていた」(抜粋)。風土記では霊源和尚の隠居とありますが、龍雲寺の記録では開山は節外和尚、創建は霊源和尚となっています。二人の和尚の協力により建てられたのでしょう。
開山・節外禅師
盤珪国師の弟子は400余人に及んだ。中でも節外、大梁、右門、大随を「四天」と呼び、潜嶽、玲岳、圭堂、徳岩を「四傑」と呼んだ。
『新編武蔵国風土記稿』
文政11(1828)年成立。全265巻。昌平坂学問所地理局総裁・林述斎編。武蔵国の各郡村里に分けて、歴史、自然、名所、産物などあらゆるものが網羅されている。
一八五五年の安政の大地震。江戸は大きく揺れ、火災も発生し、死者は一万人に達したといわれています。龍雲寺の伽藍も大打撃を受け大破、伽藍の復旧は不可能になりました。そこで、龍雲寺の別院に移ることになります(野沢三の四十番地・環状七号線沿線)。しかし、その後、無住職の時代が続いたため、復旧ははかどらず、記録も失われ、荒廃してしまうのです。
幾多の苦難の時代はありましたが、明治三十年以降、第九世禅海和尚などによって徐々に復興していきます。そして、第十世宗源和尚の代に悲願である伽藍の再興を成し遂げます。昭和の初期に現在の龍雲寺(野沢三の三十八の一)に松や銀杏を植樹し、昭和四十年五月、鉄筋コンクリート平屋造りの本堂をはじめ、山門、鐘楼、庫裡などの諸堂が完成しました。四十九年三月には客殿が完成し、京都妙心僧堂の暮雲軒・近藤文光老大師によって「南薫亭」と名づけられました。また、当山中興開山とたたえられる第十世細川宗源和尚の像、子どもたちの健やかな成長を願う「子育て地蔵尊」も開眼しました。平成十三年暮には隣地に会館を設立し、檀信徒接待、講座等の教化事業に使用しています。 国や地域、人に歴史があるようにお寺にも歴史があります。寺院を支えるのは住職と檀信徒のみなさま一人一人の力と心です。
現在の龍雲寺本堂
昭和30年代前半の旧龍雲寺のようす