独坐大雄峰(碧巖録)
先日、伊豆のある温泉に泊まったとき、宿の玄関に「独坐大雄峰」の軸が掛けてあるのを見ました。誰の書かとよくよく拝見すると、ある元首相の書でした。首相に就任された時に書かれたそうです。天下の宰相となって日本を自分の膝下に収めた感慨を揮毫されたのでしょうか。しかし、この句の意とするところは少し違うようです。
「碧巖録」第二十六則に、こんな話があります。一人の僧が来て百丈懐海禅師に問います。
「如何なるか是れ奇特の事」
百丈和尚、答えます。「独坐大雄峰」
「如何なるか是れ奇特の事」。奇特というのは「きどく」と読めば、不思議なという意味です。禅を修行するということは、どういう霊験あらたかなことがありますか、ということになります。「きとく」と濁点なしで読めば、殊勝なこと、殊に優れると読みますから、この世の中で一番優れていることは何でしょうか。お金でしょうか、名誉でしょうか、はたまた地位でしょうか、命でしょうかということになります。この質問は両方兼ねての言葉かもわかりませんけれども・・・。
その質問に百丈禅師は、「独坐大雄峰」と答えます。独坐というのは、ドカッと坐っていることをいいます。大雄峰とは高い山のことをいいます。「聳天屹立百丈」という言葉がありますが、険しい山のことをいいます。おそらく百丈禅師のおられた山も高い険しい山だったと思われます。要するに、この世の中で一番不思議なこと、すばらしいことは私がこうやってここにどかっと坐っておることだ!この山になかにドカッと坐っておることだ!
自分が今こうして生きていることが何よりも尊いことだ、という意味で、「独坐大雄峰」と答えたわけです。
しかし、考えてみると、この「独坐大雄峰」というのは大変難しい句だと思います。今、私たちが人間として生れて生きているということは、これは不思議なことです。身体自体だって不思議な存在ではないでしょうか。指先をちょっと怪我しても、また小さな棘一つ刺さっても身体全体がおかしくなってしまう。小さな病原菌でも身体に入れば、アッという間に死んでしまうこともあります。本当によくよく考えてみると、人間がこうやって生きているということは不思議なことなのです。それを一千年あまりも前にこういう形で「奇特の事」と問えば「独坐大雄峰」と答えた、まことにすばらしいことだと思います。
人間は近頃、ごうまん傲慢になり過ぎたようで、自分一人で生きているかのように、自分ですべてがわかったような顔をしていますが、私たち人間が知っている事はほんの一部です。謙虚なあり方というのは、自分の存在を当然と思わず、存在していることに感謝して自分一人で生きてはいないのだ、みなに生かされているのだという考えをもって、周囲に対して感謝の念を持つ事です。
大正時代の初めに、尾崎放哉(一八八五~一九二六年)という放浪の詩人がいました。この人は、東京大学を出て保険会社の支店長にまでなったのですが、三九歳の時に家族、財産の一切を放り出して放浪の生活に出たのです。彼がこういう句を作っています。「爪を切った指が十本ある」―。爪を十本切った、そうしたら指が十本ある。爪を切り終わって広げてみたら十本ある。ごく当たり前の話です。しかしそれを当然と取らずに、不思議と驚きとで十本の指を見るところ、ここにかけがえのない自分、まさに不思議な自分というものがここにある、ということを率直に表した句です。こういうところが「独坐大雄峰」ということに通じるのではないかと思います。