無事是貴人(臨済録)
歳末、茶室などでよく見かける語です。
『臨済録』に「無事是れ貴人、但だ造作する事なかれ」とあるところから出ています。
この一年間たいした災難に遭遇することもなく、無事安泰に暮らしたという感謝の念と、またもう一年も無事でありたいと願う言葉して理解されがちですが、禅語として「無事是貴人」は少々違います。私たち人間には生まれながらに仏祖と寸分違わない純粋な人間性、すなわち仏になる素質というべきものがあるのです。しかるにそれを自分自身に向けて探究するのではなくて、外に向かって仏を求め、祖を求め、善知識を求め、悟りを求め、安心を求めて、ウロウロしているのが現実です。
「求心やむ処即ち無事」と臨済禅師は一喝します。求心すること、すなわち求める心がなくなったところが無事であり、貴人であり、仏であり、悟りであり、安心であるというわけです。とかく人はなにごとでも自分を離れて他にその「根」を求めがちですが、自分に振り返って自分の中に潜在している「根」を見つけ出す態度が必要なのではないでしょうか。
しかし、金も欲しい、色も欲しい、地位も欲しいとやむことない欲望の渦に翻弄される私達にとって、この「無事是れ貴人」の語はそういう理屈は別として、ずはり、燃え盛る煩悩の火をまず消して、人間本来の静かな心に立ち返らせることを教えているような気がします。試みに一度「無事是貴人」の軸の前に座してください。必ずや心に感ずるものがあるはずです。