花は愛惜に従って落ち 草は棄嫌を逐うて生ず
釈尊は六年間の苦行を棄て、尼連禅河で沐浴しスジャータという娘の差し出す乳糜を食し、菩提樹の下に 坐り、「正覚を成ぜずんば此の座を起たじ」と心に誓って禅定に入ります。
そして七日間が過ぎ、八日目の明け方、キラリと光る星を見て「奇なる哉奇なる哉、草木国土悉皆成仏―――ああ、何と不思議な事実だろう。草も木も、山も川も皆 、仏の命を持っている……各々が独尊であり、絶対であり、個性を発揮し、自己を主張してひとつひとつ光明を放って輝いている……」と呼ばれたの です。仏教の教えはここから始まります。
インドは今でもカースト制度で苦しんでいると聞きます。古代インドではこの制度がもっと厳格であったと 思われます。その差別に苦しむ人々への解放宣言が釈尊の成道の一つの意義でもあるのです。
「花は愛惜に従って落ち 草は棄嫌を逐うて生ず」、「 愛惜」とは惜しむ事、「棄嫌」とは棄て嫌う事です。
美しい花はいつまでも咲いていて欲しいと思う。しかし時が来れば惜しまれながら散って行く。 雑草は嫌われて生えてくるからたくましいのです。
「愛惜」「棄嫌」は私達人間の都合です。「愛惜」「棄嫌」を超えて生命の尊厳を私達は感得しな ければなりません。
「花」や「草」だけではありません。お互い人間同士も然りです。私達は知らず知らずの内に愛惜にとらわれ、棄嫌にこだわり本 質を見失っています。私達は「花」に「草」に学ばなければなりません。