平常心是れ道(無門関)
「無門関」第19則にある話です。あるとき趙州和尚(~897)が師である南泉和尚(~834)に問いかけます。「如何なるか是れ道」南泉和尚答えて曰く、「平常心是れ道」。
若い趙州和尚は意気込んで仏道とは何でしょうか?と問います。南泉和尚はあっさり「平常心是れ道」と。何も難しく考えることのない、平常心が是れ仏道であり、それ以外に悟りなどあるはずがないと答えたのです。
これほど易しい語もないし、またこれほど難しい語もありません。
平常心を平穏無事、常住不変と理解して、得失是非、善悪邪正、緩急安危などのいかなるときに置かれてもその状況に惑わされることなく、悠々と普段と変わらない落ち着いた静かな心で対処できることが仏道であり、悟りであるということです。
無門関では話は続きます。
州曰く、「還って趣向すべきや否や(それではどのように修行すれば平常心が得られるのでしょうか)」
泉曰く、「向かわんと擬すればすなわちそむく(少しでも平常心を求めようとする心があればすでに平常心ではなくなってしまう)」
州曰く、「擬せずんば争かでか道なることを知らん(求めようとしないでどうして求めることができるのですか?)」
泉曰く、「道は知にも属せず、不知にも属せず・・・・若し真に不疑の道に達せば、猶ほ太虚の廓然として洞豁なるが如し(あれこれと思い図ることなく本来私たちには何のこだわりもない何にも捉われない何の偏りもないスカッと晴れた大空のような広い広い心があると信じて疑わず、その心のままに生きてゆくことが仏道であり、平常心である」
南泉和尚が意図する「平常心」とはあれこれとあげつらう知識分別を離れて、無限に続く大空のようなすかっとしたあっけらかんとした心です。