禅語集

7

無功徳

碧厳録

功徳とは広辞苑によると「善を行うことによって神仏から果報を期待し得る行為」とあり、いわゆるご利益ごりやくのことです。
禅宗を開いた達磨大師(~528)は禅を中国に伝えました。当時の中国は南北朝時代で南朝では梁の武帝が権勢を誇っている時代です。武帝は仏教への帰依が厚く、傳大士(ふだいし当時の仏教学者)に就いて教理を研究し、大奥の寺を建立して仏心天子と世間から呼ばれるほどでした。達磨大師の渡来を聞いて大いに喜び、礼を尽くして宮中に請じ、仏法についての問答を交わすことになりました。
武帝は問います。「私は即位以来、寺を造り、経を写し、僧を沢山作り上げてきた。この私にはどのような功徳があるのでしょうか。」
達磨大師の答えは「無功徳」、たったそれだけです。
何のご利益もありませんよの一言で済んでしまいました。確かに寺を造り、仏を造り、写経、供養等の仏事はよい果報を受ける行いかもしれませんが、あれもしたこれもしたと果報を期待しての善根(ぜんこんよい行いのこと)は真の善根ではありません。達磨大師はそこを武帝に諭したのですが、大師が言った無功徳という言葉にはもっと深い意味を持っています。
私たちは1つの行為をすればひとつの効果がはっきりと現れなくては無用な無駄な行為だと判断してしまいます。功利的打算的な行為を離れて純粋な人間性の心情から出る行為、これが仏の慈悲というものであるのだということです。
無益でも愚行でもよい自分の信ずる道に黙々と邁進まいしんする仏の慈悲行、菩薩行をこの達磨大師の「無功徳」から学び取りたいものです。