禅語集

15

破襴衫裏に清風を包む
破襴衫裏包清風

【枯木再び花を生ず -禅語に学ぶ生き方-】
細川景一 著より

破襴衫裏包清風(禅林句集)

襴衫とは中国唐宋の時代に着用したすそべりのある着物の事で、破襴衫とは破れてボロボロになった着物の意味です。
破れたボロボロの着物を着ていても、中味は一味清風の気高い心を持っているというわけです。
この語は本来、無心に徹した禅の修行僧、即ち雲水の心意気を示したもので、破れ衣に身を包み、悟りを求めて各地の善知識(禅の指導者)を訪ねて修行する消息を「破襴衫裏に清風を包む」というのです。
中国唐山の寒山、拾得もやせ枯れ、着物はボロボロでうす汚れ、まるで狂人か乞食の風体をしながら気品の高い『寒山詩』を頌しました。
日本では乞食桃水といわれた江戸時代の曹洞宗の僧、桃水雲渓禅師が一生涯乞食の身なりをして、乞食の群の中で暮らし、「七十余年、快なる哉」と遺偈を残して遷化(死亡)しています。このように、身なりはみすぼらしいが、崇高な精神を持ち続けた古徳(高徳の僧)は枚挙にいとまがありません。
しかし、この人はちょっと違っています。
静岡市にある臨済宗の宝泰寺は、当地きっての古刹です。この寺の墓地には有名な人の墓が沢山ありますが、中には変わった人の墓があります。それは天涯孤独、ただ一人の乞食の墓、「安東凌仙信士」、加賀屋吉五郎の墓です。
吉五郎は嘉永5年(1852)、駿府伝馬町の旅人宿、加賀屋という富裕な家の一人息子として生を受けます。幼くして両親を失い、やむなく家業を他人に任せて自分は木挽職人の家に徒弟に入り、24歳までは真面目な職人として働き、腕もみがきます。
しかし、明治9年(1876)12月30日の大火で、すべての財産を失います。吉五郎は世をはかなんで先祖伝来の土地を二束三文で売り払い、家を飛び出して行方をくらまします。その後数年たって、見るも哀れな乞食姿となって帰って来ます。はじめは生家近くの宝泰寺本堂の縁の下をねぐらにしていましたが、後に畑の中に乞食小屋を作り住みつきます。天気がよいと、毎日ボロを身にまとい街に姿を現わします。ところがちょっと普通の乞食と違っています。一戸から一厘銭一個以上は、もらわなかったのです。余分に恵む者があれば、必ず釣銭を返したのです。
何もその方がもらいも多いと思ったのではなく、彼の人の好さ、律儀のなせる事だったのです。彼のむさぼらない気持に安心し、街の人は彼に恵むことによって、慈悲の重みを感じたくて彼を可愛がります。
吉五郎の風貌はうすぎたなく仙人のようでしたが、その目はやさしく、従順で正直で、わるさをしなかったので皆から信用されます。美食を好まず、酒もタバコもすすめられても決して受けなかったといわれています。
昭和4年(1929)2月5日の寒い朝、行年78歳で静かに独りで死んで行きます。死顔は無精ひげの中に、清浄平安な仏のような顔でした。
無心無欲、自我意識もなく余分な金の使途もない、まったく赤子のような心で、一生を生きぬいたのです。宝泰寺の住職は彼に戒名を与え、手厚い野辺の送りをされたそうです。(妙心寺発行『花園』昭和39年7月号、秋山寛治「乞食の商法」参照)
加賀屋吉五郎の生きざま、まさに「破襴衫裏に清風を包む」の消息ではないでしょうか。