南泉和尚猫を切る(碧巌録)
南泉一日、東西の両堂、猫児を争う。
南泉見て遂に提起して云く、道い得ば即ち斬らじ。
衆、対なし。泉、猫児を斬って両段となす。
『碧巌録』第63則にある話です。南泉普願和尚(748~795)は、趙州禅師の師に当たる人です。「南 泉一日、東西の両堂、猫児を争う」。雲水が多かったのでしょう。東と西に僧堂がありました。その僧堂で猫を取り合っていたのです。もちろん所有権の争いとは考えられません。猫に仏性があるのか、ないのか、あるいは猫の魔性の有無の話だったかも知れません。なかなか結末がつきません。そうすると「南泉見て遂に提起して云く」。最初は高見の見物ときめこんでいた南泉和尚ですが、余りのバカバカしさに腹を立て、その猫をぐっとひっ掴んでいうには、「道い得ば即ち斬らじ」、短刀を突きつけて、どうだ一句をいって見ろ、さすれば斬らないで助けてやるというわけです。「衆、対なし」。大勢のものは答えがありません。「泉、猫児を斬って両断となす」。サァーと猫を斬って投げ捨てた、というわけです。
大変、恐ろしい話です。猫こそいい迷惑です。しかし、南泉和尚が無意味に殺生をしたわけではありません。
およそ私たちが悩み苦しむのは、すべてを2つに分けて見る分別心があるからです。「生」と「死」、「善」と「悪」、「是」と「非」、「愛」と「憎」、「苦」と「楽」などの相反する2つの概念の間で、右往左往して煩悩妄想をつくり出しているのです。それらを一気に切り捨てて、スカッとした無心に徹した消息を得ることができれば大変すばらしいことです。そのために相反する2つの概念、「両頭」を共に断ち切る必要があったのです。「両頭共に切断して清風を起こす」といわれますが、南泉和尚の一刀はまさにそのところです。
南泉和尚は、修行者たちの子猫の愛着を切り捨てただけではありません。修行者たちの「生」と「死」といった二元対立の分別議論を一刀のもとに切断したのです。思えば南泉和尚は、修行者たちに2つの対立概念を断ち切った消息を示せと迫ったのです。
南泉また前話を挙して趙州に問う。
州すなわち草鞋を脱して頭上に戴いて出ず。
南泉云く、子もし在しなば、卻って猫児を救い得てん。
話が続きます。「南泉また前話を挙して趙州に問う」。趙州和尚は昼間の現場にはいなかったのです。趙州が夜になって帰ってくると、今度は南泉和尚がその話をした。そうすると、「州すなわち草鞋を脱して」草鞋を脱いで、「頭 上に戴いて出ず」その草鞋を脱いで、自分の頭の上にちょっと乗せて部屋から出ていった、というわけです。そうすると、「南泉云く、子もし在しなば、卻って猫児を救い得てん」、きっとその場に和尚がいたら猫を斬らずに救ったであろう。この草鞋を脱いで頭に乗せて帰ることが、いったいどうして猫を救ったことになるのでしょうか。
先頃、テレビのコマーシャルで面白い場面を見ました。何のコマーシャルか忘れましたが、一人の男性が満足そうに突堤の先端で釣りをしています。場面が変わって一匹の猫が魚を銜えて意気揚々と突堤を歩いて行きます。面白いと思ったのは魚を盗られたからではなく、魚を銜えて歩く猫の姿が面白かったのです。その態度がまことに堂々として、そこには遠慮もなければ、罪の意識もありません。まさに一切のこだわりを捨てて無心、無念、天上天下唯我独尊といおうか、天地一パイ、猫一匹という情景だったからです。趙州和尚が「頭上に草履を戴いて出ず」の消息、まさにこれです。
相対的分別心を断じて、生も死もない、善も悪もない、絶対的唯一の無心の境涯を猫になり切ることによって示したのです。斬り殺された猫は趙州の働きによって、再び生き返り、悠々とまた境内に戻っていったのです。